2009年9月30日水曜日

断られ上手

仕事があって大学に行ったら、何やら人がたくさんいた。皆もう夏休みに飽きたのか? ぼくはまだひと月ほど欲しいぞ。

人にものを頼むのが苦手だ。基本的に人を信用していないからなのか、基本的に自分自身を高く評価しすぎるからなのか、自分でやれる仕事は自分でやってしまう。このことに起因するのかどうかはわからないが、少なくともこうした自分自身の性格に関係づけられる傾向が、ぼくには認められるようだ。断られ上手で頼まれ上手ということ。ろくなことはない。

誰かに何かの仕事を頼んでも、断られることが多い。ぼくだけがことさら断られることが多いのではないのかもしれないが、ぼくは何しろ食い下がることをせずにすぐにあきらめる。あきらめて自分でやってしまう。ただでさえ苦手な頼むという行為を、もうそれ以上したくないからだ。断った人のことは一生忘れない……というのは嘘。でも断った人は少なくともチャンスをひとつ減らしているのだと思ってくれないものかな? 

人にものを頼まれるのは、頼む側がまったくのところぼくを誤解しているからではないかという気がしないでもない。ここでいう「頼まれる」というのはやりたくない仕事を頼まれるということ。やりたい仕事を頼まれるのは大歓迎だ、もちろん。

このところ、頼んだ仕事を断られたことと断られなかったことが交互にあった。頼まれた仕事を忘れていて慌てた。

明日から本務校での授業が始まる。そのことに関して、やらねばならないことを忘れていて、大慌てしている。明日は1、2、5限、5限外。あいまに面談。なんだこのスケジュールは?

2009年9月26日土曜日

しゅうりょー

キューバ学校でお話ししてきました。だいぶ久しぶりの代官山。

お題は「文学を通して見るキューバ革命」。デスノエス『いやし難い記憶』が、ぼくの記憶の中にあるよりもはるかに面白い小説だという発見など、話してきた。

で、『ラテンアメリカ主義のレトリック』を数冊置いていたら、売れた! どうもありがとうございます。いやあ、置いてみるものだな、と関心。

2009年9月24日木曜日

連休が明けたと誰が言った?

まだ本務校は授業が始まらない。やれやれだ。にもかかわらず、いろいろな面倒な仕事を片付けねばならず、大学に。卒業できなかった学生のこととか、研究生として来たい学生のこととか、加えてぼく自身の先生ではない先生の教え子たちの同窓会のためのはがき出しとか……やれやれ。なんでこんなことまでしなきゃいけないんだろう?

明後日の準備もあるし。

明後日はキューバ学校「文学を通して見るキューバ革命」。資料作りしてます。

昨日はやはり2時間前に思い立ってラテンビート映画祭最終日、ちょうどキューバからの、

エルネスト・ダラナス『壊れた神々』(2008)。

キューバの映画も現代的なある映画の一方向をしっかりと示しているのだということがわかる作品。冒頭、カルペンティエールが引用されて、はっとなる。引用というか、まあ、傍証として引かれたということ。

大物売春斡旋人の遺品を巡るストーリーを確かめようとした歴史学者が、現在の晩春宿の世界の切った貼ったの話に巻き込まれるという話。その歴史的売春斡旋人を巡ってカルペンティエールの名が出されたということ。

明後日の話のマクラに使えそうな話。

2009年9月22日火曜日

5連休だと誰が言った?

非常勤先の法政は今日から授業。誰だよ、シルバーウィークなんて言ったのは?

初日で、本来は休日で午前中なのに、だいぶ学生が来ていた。長い夏休みにそろそろ飽きたのだろうか?

法政は5月の連休を埋めるべくいろいろな休日に振り替えるので、ここでは逆に振り替えられて、休日返上の登校日となる。文科省が推進する授業15週確保のための努力のひとつだ。

だいたい、1.5時間を2時間と読み替えてそれを15回(週1回)やることですべての授業を4単位とするという均一授業のあり方が問題なのだ。週数を増やさなくても、1時間の授業を週に2回やるとか、そうした時間割にすればいいだけの話ではないのか? 

昨日はラテンビート映画祭。ロベルト・スネイデル『命を燃やして』。贅沢に金を使ったことがわかる作品。

2009年9月20日日曜日

ローテクが常にハイファイ

Eモバイルの情報端末を持っていることはいつか書いたとおり。昨日出先で使おうとしたら、接続できなかった。夏休みで外に出ることも多くはなかったので、久しぶりに使おうとしたことになるのだが。前回使ってから今回までの間に、そういえば、OSが替わっている、少し不安があった。

今日、試しに家でも使ってみた。やはり接続できなかった。サービスセンターに連絡してみたら、案の定、現時点でスノーレパードでの動作は確認できていないとのこと。近似の機種のサポートソフトで代用して、しばらくはだましだまし使えるらしい。

スノーレパードになって最初に確認された変化がこれというのも、なんだかわびしい。

ま、実際にはタイムマシンの動作が軽く速くなったように思えることも変化だが。

『アベラールとエロイーズ 愛の往復書簡』沓掛良彦・横山安由美訳(岩波文庫、2009)

アベラールとエロイーズの書簡集の新訳。去年の夏、渋谷でばったりお会いした際に、訳者はこれにかかっているのだとおっしゃっていた。それがこうしてできあがった次第。

2009年9月15日火曜日

少女は、だから、父を待つ

「愉悦の小説案内07」掲載の『NHKラジオ まいにちスペイン語』2009年10月号が郵送されてきた。今回は『エル・スール』。今年翻訳が出たばかりの旬を紹介してみました。

ちなみに、昨日、第9回の原稿も送付済み。連載もあと3回分書けば終わりだ。

ところで、「まいにちスペイン語」、10月から講師交代。福嶌教隆さんから下田幸男さんに。2008年4月-9月の再放送だとか。

今日はスペイン留学から帰ってきた学生の訪問を受け、(スペイン?)土産のうなぎパイをいただいた。うまし。ぼくが顧問を務める朝鮮舞踊同好会の学生に請われて顧問らしきことをし、しかる後に、会議。

そして今日も1本

火曜日に書き込んでいるが、月曜の話。イチローが9年連続200本安打を打ったのを見てから、これ。

ヘラルド・ベラ『情熱の処女(おとめ) スペインの宝石』(スペイン、1996)ペネロペ・クルス他

まったく、ジェラルド・ヴェラ監督だと。ろくに確かめもせずにこんな表記を公にして毫も恥じないDVDソフト会社の担当者には猛省を促したいな。パイオニアLDCだ。

まあそれはいい。『ラ・セレスティーナ』の映画化であるこの作品の脚色にはダイアローグ監修としてスペイン古典文化研究の泰斗フランシスコ・リコがかかわっていたことにはじめて気づいた。脚本はラファエル・アスコーナ。気合いが入っていることはわかる。

午後は会議。明日も会議。その前に学生と面接。明後日は1時から無制限3本勝負+外食。木曜日は元教え子に会う。今週は人負けがしそうだ。

2009年9月14日月曜日

今日の2本

フェルナンド・ソラナス『ラテンアメリカ 光と影の詩』
アレハンドロ・アメナーバル『テシス 次に私が殺される』

この「次に私が殺される」という日本語副題、なかなかいいな、と思ったのであった。

2009年9月13日日曜日

はじめて買ったCDは?

生まれてはじめて買ったCDは、『ザ・ビートルズ』。いわゆる『ホワイト・アルバム』だ。

もちろん、ぼくたちの世代は二十歳も超えてからCDに出会っている。そんなにはじめてに感慨があるわけではない。その前には「はじめてのレコード」があるのであって、それとは意味合いが違う。

親元を離れて以来、結局はどんなに小型化してもある程度かさばるターンテーブルは持ったことがない。けれども、レコードは買って、ターンテーブルを持っている友人たちにテープに入れてもらったりして聴いていた。だから、10歳のころから10数年かけて何十枚だか何百枚だかのレコードはあったわけだ。ひどく貧乏だったので、「何百枚」はあやしいものだと思う。百枚だってあったかどうか。でもまあ、友人のレコードをテープにダビングしてもらうなどしてもいたから、気分は何百枚ものレコードを持った。

大学の何年生のころだったか、そろそろCDの普及もかなりなものになったと思われたころ、まだ決して安くなかった小型CDプレーヤーをローンで買い、ラジカセにつないで聴き始めた。

ハードを買ったらソフトも必要だ。プレーヤーを買った足でレコード屋に向かい、CDを買うことにした。CDソフトだって安くはない。そんなにたくさん買えるわけではない。何か飽きの来ないものを1、2枚と思っていた。そこで目についたのが2枚組の『ホワイト・アルバム』。小学生のころ(中学生だったか?)、近所の年上の友人の家で聴かせてもらって以来、レコードも持っていなければその複製も持っていないビートルズのアルバムの何枚かのうちのひとつだった。だから買った。

別にビートルズ・マニアではない。もちろん、嫌いではない。だからかつてレコードで持っていたけれどもCDに買い換えたというアルバムもある。でもレコードとしてもCDとしてもダビングされたテープとしても所有したことがないというアルバムだって2枚はある。まあその程度の愛好の度合いだ。レコードで持っていたけれどもCD化されたやつを買っていないというアルバムだって何枚もある。でもともかく、ぼくの中でビートルズというのは、はじめて買ったCDのアーティストだ。

何日か前にビートルズのアルバムがディジタル・リマスター版として発売された。だから、レコードでは持っていたけれどもCDでは持っていなかったアルバムのうちから、(『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バント』と悩んだ末に)『アビイ・ロード』を買ってみた。紙ジャケットと特典映像が嬉しい1枚。

……うーん、聞き比べないことには「ディジタル・リマスター版」であることの意義など、わからないな。ぼくはそんなに耳がいいわけでもないし、そもそもこのアルバム、ずいぶん久しぶりに聴くのだし。レコードはメキシコに行く前にもうすべて売り払った。レコードからダビングしたカセットテープの数々も、テープレコーダーのない現在のステレオに買い換えるときに捨ててしまった。聞き比べようがないのだ。

聞き比べたとしてもわかったかどうか、……それはまた別次元の問題だ。

さらに何日か前の話、ミゲル・デリーベス『ネズミ』喜多延鷹訳(彩流社、2009)購入。

仕事に行き詰まった時にプリンタのインクが残り少ないとの表示が出たので、インク購入のついでに気晴らしに散歩に出たのだった。そのとき立ち寄った吉祥寺の啓文堂で見つけた次第。帰宅したら訳者から買ってくれとの案内の葉書が来てた。

デリーベスは『マリオとの五時間』と『好色六十路の恋文』なんてのを学部の授業で読んだものだが、その後この2つはいずれも翻訳が出た(後者は同じ喜多訳で、前者は同じ彩流社から)。振り返ってみると、デリーベスは翻訳された作品は多い。

2009年9月6日日曜日

2人のフェルナンド

フェルナンド・ソラナス『スール その先は……愛』(アルゼンチン、フランス、1989)
フェルナンド・トゥルエバ『ベルエポック』(スペイン、フランス、ポルトガル、1992)


タイトルに「2人のフェルナンド」などと書いたが、ここにはもうひとりフェルナンドがいた。『ベルエポック』にはフェルナンド・フェルナン=ゴメスが出演しているのだった。

金曜日にはアルモドバルのことを話題に出したが、このように過去のスペイン語圏の映画を、それもこれまで何度も何度も見たはずの映画を集中して見ることになっている。ちょっとした仕事だ。最近少しリズムをつかんできたので、この調子が途切れなければ、今年中にはものになるだろうと思う。

『ベルエポック』は、しかし、公開時に見たきり、ずいぶん久しぶりだと思う。記憶の中にあるよりもだいぶ軽妙な印象を受けた。

明日は会議。

8月の最後の会議と9月の最初の会議の間に2週間も間はなかった。そしてその間も何やら仕事関係のメール対応に追われていた。

2009年9月4日金曜日

自己満足とリアリティ

ペドロ・アルモドバル『神経衰弱ぎりぎりの女たち』(スペイン、1987)を久しぶりに見ていたら、俄然ガスパチョが飲みたくなった。睡眠薬を入れたガスパチョをロッシ・デ・パルマが間違って飲んでしまうことからいろいろとドタバタが起こる映画なのだ。あれを見てガスパチョを飲みたくならないでいるのは難しい。ピーマンはなかったけれども、トマトはあったのでトマトとタマネギだけで作った。もちろん、睡眠薬は入れなかった。おいしい。分量を考えてニンニクを少なめに入れたつもりが、逆にニンニクが存在感を示していた。

でもおいしかった。残りは明日のために取っておこう。

昨日はそういえば同じアルモドバルの『マタドール』(1986)を見た。それもこれもある仕事のためだ。『マタドール』では、冒頭近く、ナチョ・マルティネス演じるディエゴが闘牛のスウィートスポットについて講義するシーンがある。「針の穴」と字幕では訳されていたその場所(El hoyo de las agujas つまり字幕は直訳だ)に絶妙の角度で剣を突き刺すことによって牛は簡単に仕留められるのだという話。それとのクロス・カットで、女弁護士マリア(アスンタ・セルナ)の犯罪が展開される。彼女はまさにその「針の穴」の場所に髪留めを突き立てて人を殺す。この対応がわかりやすい。

このシークエンスにおける講義内容、これは映画内での主題を示唆するだけでなく、ストーリーにリアリティを付与する。こうした細部をうまく作らなければ脚本は生きない。この箇所を書くに当たって、アルモドバルは闘牛術の本の一冊も読んだのかもしれない。勉強したのかもしれない。「勉強したのかもしれない」と思わせる箇所があることがストーリーテラーの成熟を保証する。……こんなことを書くのは別のある仕事が念頭にあるから。

練習だ。

2009年9月3日木曜日

横から遮られるエクリチュール

昨日のうちに翻訳のある区切りまで終えてしまおうと思ったら、別件で校正の話が入り、元教え子から趣旨のよくわからない質問が入り、ついでに翻訳の仕事も元の文章の意味がわからなくなって数時間思い悩み、夜中の2時頃にやっと予定の場所まで終わらせたと思ったら、今日も今日とてある原稿を3項目×4ページの12ページ分仕上げ、それですら見込んだ時間よりも長引いてしまい、肩が凝ってしまい、文章がどんどんわからなくなっていく。やれやれ。書くことは読むことと同じくらい外的要素に遮られるものなのだな。

ところで、はじめてTVで観月ありさを(そのたたずまいを)見た時には、この人は誰かは特定できないけれどもある種の少女漫画家(たとえば吉田まゆみ)が生み出した人間だと分析して、友人たちから「?」「?」「?」と言われたことがある。たとえば和久井映見を見た時にこの人は『夏子の酒』を演じるために生まれてきた人だとつぶやいては、実際、後にその漫画作品がTVドラマ化されたときに主役を演じたというのに、その時点でそんなことを予見するはずのない友人たちから同様に疑問符を突きつけられたことがある。

菊地 (……)『愛と誠』のいちばん最初の映画化とか、『ドカベン』の映画化を考えると、人間というのはマンガに似せられるわけがない。人間のほうが線が複雑で、描線が少ないマンガの輪郭線ということを考えたときに、人間がマンガに似るわけがないから、マンガを映画化すると必ず生々しく気持ち悪くなる時代があった。だけど、いま『ヤッターマン』の実写と『ヤッターマン』のアニメはまったく同じで、人間がやっているにもかかわらず、同じ輪郭線で動いている。あるいは少なくともそう見える。あと、ほしのあきみたいに、フィギュアを逆に人間化したみたいな人も出てきて、実物とリアルが、少なくともオブジェクト・レベルで逆転してるという話になって。
大谷 で、自分はそこに参加できないと認識しちゃうと、圧倒的な屈辱感と敗北感が生まれるんじゃないか、という説だったんだ。格差があるとしたら賃金の格差じゃないんだと。(菊地成孔、大谷能生『アフロ・ディズニー――エイゼンシュテインから「オタク=黒人」まで』文藝春秋、2009、270-271)


なんて一節を読むと、ぽんと膝を叩かずにゃいられない。ぼくと同い年の菊地などぼくよりはるかにマンガに描ける人間であるのだから、ぼくとしてはその「格差」に歯ぎしりせずにはいられない、と思いつつも、膝を叩いているわけだ。映画における映像と音のずれなどを扱った慶応での講義の活字化。後期の授業の準備のためにもとめくった次第。

2009年9月1日火曜日

雪豹導入!

Mac OS X Snow Leopard導入。頼んでいたアップグレード版が届いたので。

「スノウ」のココロは何なのか、まだ確認できていない。確認するためにいろいろといじっている暇は、今はない。ま、ただし、「レパード」のココロだって、その前の「タイガー」やらなんやらのココロだってわかってはいないのだが。少なくとも言えることは、ディスクケースには雪をかぶったヒョウが映っていたということ。なんだかかわいい。

機材を使いたい、ついては名前を貸して欲しい、いやそのためには教室使用許可が必要だ、そこまでとは思わなかった、じゃあもういい、などという学生とのやりとりで摩耗した。摩耗する一方で、「すべての狂人は南か西を向くものだが、おれは北向きで見知らぬ男を迎え入れた」などという文章を訳しながらひとりで笑っている。

もう9月だ。