2019年4月16日火曜日

これもジェンダー・バイアス?


髪の薄さはもはやごまかすべくもないので、髭、眼鏡、ハンチングの三点セットでごまかそうと思い、作業用および授業用はいわゆる「中・近」の眼鏡は持っているのだが、それとは別に、かつて作った遠近の眼鏡をかけるようになったのだ。

実は「遠」の部分はただのガラスであるこの眼鏡、「近」の部分、つまり凸レンズの度が合わなくなっているのだった。まあ、早く言えば、老眼が進行したということ。電車などに乗っているときに「中・近」は今ひとつ合わないし、このままの「遠近」では読書もままならない。だから思い切って買い換えることにした。

が、眼鏡店を回っても、オーバルの眼鏡を試しにかけていると、大抵はそれは女性ものだと言われる。男性ものはこの辺ですね、と言われた場所を見れば、どれも角形のものばかりだ。

そうはいっても、仕方がないので、まあ角形の方が本来の僕の属性である鋭敏さなどが強調されていいか、などと自らに言い聞かせ(自らをごまかし)、買ってしまったのだ。角形。(右が度の合わなくなったもの。左が新しく買ったもの)

今度は「遠」の側も単なるガラスではなく、度が入っている。

『文学ムックたべるのがおそい』Vol.7 が届いた。僕の短篇小説「儀志直始末記」が掉尾を飾っている。「儀志直節」「芦花部一番節」のふたつの島唄を結びつけるフォークロア風の短篇と、それの作者と思われる人物についてのエッセイ「編者注」から成り立つ二段構成だ。

2019年4月8日月曜日

定冠詞の不在


先週の金曜日、5日には荻窪の本屋Titleでのトークショーを聴きに行った。久野量一さんと星野智幸さんによるもの。つまり、以下の小説を巡る対談。

カルラ・スアレス『ハバナ零年』久野量一訳(共和国、2019

1993年の最大の経済危機を迎えていたころのハバナが舞台。その前年くらいに初のハバナを体験した久野、星野のふたりがいかにこの小説に感情移入したかという話題から始まって、いわゆる「ネタバレ」のないよう注意を払いながら、ふたりでこの小説の世界を追体験していた。

小説はアレクサンダー・グラハム・ベルよりも前に電話を発明しながらも特許申請の手続きなどの問題で手柄を横取りされてしまったイタリア人技師アントニオ・メウッチの失われた文書を巡るミステリー仕立て。久野・星野両氏が「ネタバレ」のないように注意していたというのは、そういう理由。

メウッチが最初に電話の原理に気づいたのがハバナの劇場で勤めているときのことで、その後の再現実験に関する文書を、それぞれの目論見を胸に秘めて(腹に抱えて)探す人々の話。中心人物は皆、偽名ということにされるのだが、語り手は数学者のジュリア。彼女が恩師にして元愛人のユークリッド、作家のレオナルド、美男子エンジェルの三人の男(文書保持が疑われる容疑者)に翻弄されながら、それぞれ三人のために問題の文書を探す。

メウッチのことを小説にしようと思い、そのための決定的な資料として問題の文書を探している作家のレオナルドの話を聞いたジュリアがそれをユークリッドに語ったところ、彼もまたその文書を探しているとのこと。ユークリッドの子供の友人でジュリアとレオナルドを引き合わせたエンジェルも実はその文書にはひとかたならぬ興味があることがわかったあたりから、展開が加速する。同じ文書を欲しがっているらしいイタリア人バルバラやエンジェルの元妻マルガリータ(彼女は一度も登場しない。ただ常に言及されるだけ)らも絡み、登場人物相互の知られていなかった関係が露呈し、ジュリアはそのたびに三人の男たちのそれぞれに裏切られたと感じ、態度をコロコロ変える。論理的な数学者の頭脳で推理しておきながら、感情に基づく思い込みで自らの立場を変えて宝探しに挑むジュリアの視点から描かれるので、問題の所在が明らかになったり紛糾したりという一進一退を繰り返す。そういったところが読ませるポイント。

NHKラジオのテキストでの連載、7月号はこれで書こうかと思っている。それだけでなく、今学期の授業も、まずはこの問題から入っていこう。

で、タイトルの「定冠詞の不在」というのは、この小説の原題のこと。

Habana año cero

La Habana ではなく Habana だ。定冠詞がついていないのだ。それもまた意味深。訳者の久野さんはこの小説で重要なポイントのひとつは3という数字なので、三語にこだわったのではないか、との見解。

写真はイメージ。黒胡椒たっぷりだからこその alla carbonara 。うまそう。自画自賛。

2019年4月1日月曜日

昨日のこと


昨日は英文の大橋洋一さんの退職を記念した現代文芸論主催の特別講義があった。実質、最終講義だ。最終講義という名目のものは英文主催で、英文の流儀に則り、東大英文学会として開催された。閉じたものだったので、ここはひとつ、現代文芸論の協力教員として長年ご尽力いただいた大橋さんには、公開で最終講義をしていただこうというのが、趣旨。

題目は「21世紀批評理論における4つのターン」。

「生態学的」「動物(論)的」「認知(論)的」「情動的」という4つの転回(ターン)について、代表的な論者の主張をまとめながら、主にカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』をそうした理論の転回の後の地点から読み直すという内容。近年、あまり理論の展開を追っていない身としては勉強になったのだ。

とりわけ、『わたしを離さないで』に「不在の原因」としての動物論を見るなど、うむ、なるほど、と唸るばかり。大橋さんは類似の例のひとつとして挙げていなかったけれども(志布志のうなぎのうなこのCMには言及された)、AGFのブレンディのCMで、とある学校の卒業式で、どうやら牛であるらしい卒業生たちが自分の行く先を示されて一喜一憂する(食肉になる者は泣き、ミルクがブレンディとなる者は喜び)というのがあったけれども(案の定、炎上した)、あれを見て『わたしを離さないで』を思い出した僕自身の連想に合点がいったのだった。

さて、今日から新学期。そろそろ新学期のことを考えよう。








(写真はNHKラジオ『まいにちスペイン語』のテキスト4月号。ここに、この号から「スペイン語文学の現在」という連載をするのだ)