2014年12月15日月曜日

貧乏の効用?

トリクル・ダウンなどという世界のどこでも功を奏しなかった理論(※1)を振りかざして「この道しかない」と脅すヤクザ者たちがのさばってしまっているので、私たちは貧しくとも生きていく道を探らねばならないのだろう。

貧しいと言えば、学生時代のぼくは付箋紙を買う金もなかったのだろうか? ノートやコピー用紙の残部を縦長に切り、付箋紙の代わりに本に挟んでいたようだ。

あるいは節約の精神(貧乏性とも言う)なのか? それともこうすることにこそ何らかの意義があったのだろうか?

アルトゥーロ・ペレス=レベルデの小説をロマン・ポランスキーが映画化した『ナインス・ゲート』で、主人公(ジョニー・デップが演じた)がある収集家の貴族の女性の家で見出した本には、そんなあまり紙らしいものを切り、メモ兼付箋としているかのようなものが挟まっていた。

ふむ。これは意外にいい考えかもしれない。付箋でもありメモでもあるもの。

たとえばぼくはこれから大量の修士論文と卒業論文を読まなければならないのだが、それらは研究室に保管され、後輩たちが参照できるようにするものだ。だから無闇やたらと書き込みするわけにもいかない。そんな場合があるのだ。そうしたときのために、コピーの残部を付箋代わりにして、そこにメモも書きこむ。試してみる価値はあるかも?


(※1) 中山智香子『経済ジェノサイド』が伝えているところによると、新自由主義経済政策はチリやアルゼンチンなどで試行され、実際にはそれほどの効果を上げなかった。それだというのに、自己宣伝によって「この道しかない」とでもいいたげに自らを売り込んでイギリスやUSAなどで採用されるにいたるのだ。アメリカ合衆国がその後どうなったかは周知の如く。

2014年12月14日日曜日

Hoy se ha suicidado nuestra democracia. あるいは下衆とシックについて

今日、14日『朝日新聞』読書欄11面「売れてる本」で紹介されていたのは、ジェニファー・L・スコット『フランス人は10着しか服を持たない』神崎朗子訳(大和書房)

朝日の編集委員鈴木繁のまとめていたことを思い切りパラフレーズして言うならば、要するに悪趣味で下品なアメリカ人がフランス人にシックの何たるかをさとされて開眼し、それを伝える、という話。

実際、ちょっと前からネット上でもいろいろと評判で、ぼくの場合、まあこの種の本は本屋での立ち読みで済ませるので、そうしようと思ったら、池袋西武リブロでもたくさん面出しされていたのだが、既に立ち読みの先客がいてできなかったという次第。なので、上のまとめはだいぶバイアスがかかっているかも。

しかし、……

はて……。

今日も選挙で悪趣味で下品な成金どもの利益団体が大勝したとか何とか……

ぼくだってフランス人張りにシックを気取るほどではないにしても、それにしても品のない連中は嫌いだ。安倍晋三の顔などもう見たくはないのだ。


『フランス人は10着しか服を持たない』が売れる世の中とは、シックなんて言葉すら知らないだろう下衆がのさばる時代であるのだなあ。まことに世は反語的なのだ。

2014年12月13日土曜日

ぼくだって本を読む

そんなわけで、「冊」の単位に還元したらどのくらいになるかはわからないが、ぼくだって本を読む。

ところが、その本たちは授業のためだったり執筆のためだったりに読むものである割合が、このところ高くなってきた。趣味、……というか、すぐには何かに反映されないけれども読んでみた、という本が少なくなってきた。

たとえばぼくはNHKテレビでスペイン語のテキストに「現代作家の味わい方」という連載を持っていて、なるべく最近訳された小説などを紹介している。そのために読むものもある。そこで紹介するので、いきおい、ここではあまり紹介しない。

たとえば今度出る1月号ではエドゥムンド・パス・ソルダン『チューリングの妄想』(服部綾乃、石川隆介訳、現代企画室、2014)なんてのを紹介しているし、来月号ではロベルト・アンプエロ『ネルーダ事件』(宮崎真紀訳、早川書房、2014)を紹介する。それについては本文をどうぞ、というしかないのだな。

ところで、『チューリングの妄想』は面白かった。イシアル・ボヤイン『ザ・ウォーター・ウォー』(スペイン、フランス、メキシコ、2010)なんて映画に想を与えたボリビアの水戦争とパラレルな事態が電気に関して生じている架空の都市で、反グローバル化の動きをサイバースペースと現実空間で起こす集団と、それを食い止めようとする国家の情報機関との攻防を扱った小説だ。暗号解読者が主人公なので、暗号についての蘊蓄が垂れられ、推理小説とは暗号の歴史なのであったということを改めて知らされる。パス=ソルダンは「反マジックリアリズム」のマニフェストと言えるMacOndoに参加した人物だが、さすがだ。

読んでね、小説そのものと、ぼくの紹介文。


背後に見えるのは『図書新聞』12月20日号。ここに1年を回顧している。(ぼくは回顧しているのだが、他の人たちは下半期の3冊を挙げている。崎山政毅さんが『チューリングの妄想』を収穫に挙げている)

2014年12月11日木曜日

本は読むべき……だろうか?

ちょっと前にこんなニュースが流れた。文化庁の国語に関する調査で、人々の読書実態を調査したら、ひと月1冊も読まない人が半数近くいたという話。それを受けて、昨日、NHKではこういう番組を放送したそうだ。残念ながらぼくはその時間帯、たくさん本を読む人たちと本を読まずにパエーリャなどを食していた。よって、観ていない。立花隆の意見は知らない。NHKの意図も知らない。

わかっていることは、問題が、人は本を最初から最後まで辿り、それを辿り終えないうちは1冊読んだとみなさないというオブセッションに囚われているところにある、ということだ。

管啓次郎は本を「冊」の単位で考えることはないのではないかと提唱している。ぼくも何度かここに書いたけれども、大半の読書法指南書が、そう明記せずして伝えていることは、1冊丸ごと読む必要のない本というのが存在するのだという事実だ。

そもそも20ページの本も1,000ページの本も同じひとつの「冊」という単位で扱っていいのか? 


すべての本を丸ごと1冊読む必要はないのだよ。そう伝えるところから読書の推進は始まるのだと思うのだけどな。

2014年12月8日月曜日

本は高い……だろうか?

ぼくは「外国」の婉曲語法として「海外」を使うことに抵抗がある。「外国」で通す。


書物、もしくは読書行為は以下の2つにカテゴライズされる。

1) 趣味、もしくは余暇(の伴)
2) 仕事(のための資料)

2)にはさらに以下の下位区分がある。

2)-i) 一次資料
2)-ii)二次資料

2)-i)一次資料とは、仕事で論じる対象となるもの。2)-ii)二次資料とはそのための補助となるもので、さらに、

2)-ii)-a) 情報取得のために必要なもの
2)-ii)-b)思考のヒント、比較対象、等々に使われるもの

に区分してもいい。もちろん、一冊の本がこれらの中の複数のカテゴリーに跨がることはある。往々にしてある。2)-i)一次資料が文学作品である場合、1)と区別をつけることは難しい。

今そのカテゴリー横断は措いておこう。2)-ii)の場合、とりわけ2)-ii)-a)情報収集のための本の場合、ぼくらが必要とするのはそのピンポイントの情報だけだ。そんなもののために一冊まるごと読まないし、そのためにその本を買ったりはしない。(研究者となると、こうしたものも手許に置かないと成り立たないので困るのだが、それはまた別の話)

が、困ったことに、読書好きを自認する人の中には、ぼくらにとってこの2)-ii)-a)の意味以上のものを持ち得ない本を偏愛する人もいる。市場にはぼくにとってこの意義しか持ち得ないと思われる本の方が多く出回っている(そのこと自体はなんら非難すべきことでもないし、軽侮すべきことでもない)。

ピンポイントな情報だけ必要ならば、その情報だけ取れればいいので、場合によっては本屋で立ち読みしたっていい。が、2)-i)の場合、線を引いたり書き込みしたり、折ったり破ったり(!)しながら読むので、やはり買って手許に置いておきたい。外国文学を一次資料とする場合は、やはりそれは原書でなければならないといのうが暗黙の了解なので、その翻訳となると、2)-ii)-b)に分類すべきなのかもしれないけれども、これは限りなく2)-i)に近いので、2)-i)' とでもしておこう。2)-i)' とすべき存在を図書館で借りて済ませるわけにはいかない。借りる場合は、それを自分自身の本にする(つまり線を引いたり書き込みしたりする。そして貸出期限を過ぎて持ち運びする)ために丸ごとコピーすることになる。400ページの本の場合、おおよそ2,000円かかる。それでも商品としての外国文学作品よりは安上がりかもしれないが、読みやすさ持ち運びやすさ等々を考えると、あまりお得とは言えない。

2)-ii)二次資料を読むのに1日かけることはまれだ。2日以上かけたら、それは怠慢だ。一方で2)-i)一次資料は、何しろじっくりと取り組まなければならない。2日、3日、一週間……一ヶ月……なんなら1年かけたっていい。10年かけたっていい。

さて、ところで、2)-i)一次資料が書物でありうる分野は、哲学や文学、その他、少数の人文科学の分野だけではあるまいか。経済学者ならば目の前の日々の経済活動(やそれを記す資料)が一次資料だろう(経済学史の分野ならば経済学の書物が一次資料となるだろうけれども)。哲学や文学、そして理論の書物は読むのに時間がかかるし、かけていいし、かけなければならないし、そうでなければつまらない。

たった一行だけの情報を収集するのに、たとえば、500円出してそれが掲載されている書物を買うのを、ぼくはもったいないと思う。3年かけて読むかもしれない、少なくともその価値があるかもしれない書物(その価値のある書物の補助となる書物)に1万円かけるのに躊躇はしない。

ましてや1)趣味となれば、人は金に糸目はつけないはずではないか?

……とはいえ、もちろん、安いに越したことはないけれどもね。


高いと言われる翻訳書をいくつか世に出した立場からすれば、高いからといってそれだけ実入りがよくなるわけではないことは、声を大にして言いたい。むしろ、逆かもしれない。外国文学の翻訳だけで(少なくともスペイン語からの翻訳だけで)生きていくことなどできない。

2014年12月7日日曜日

洪水は一七九七村におよび

火曜日の演習の授業で、偶然、2週続けてダニエル・アラルコンについての発表がある。まずは前回、『文學界』2013年4月号に掲載された短編「洪水」(藤井光訳)の発表があり、今度は『ロスト・シティ・レディオ』(藤井光訳、新潮クレストブックス、2012)について、訳者のtocayoが発表する。

『ロスト・シティ・レディオ』は、ペルーを想定しているのだろうが、一応、架空のある国が舞台になっている。内戦が終結したその国の首都で、行方不明者の名前を読みあげるというラジオ番組のパーソナリティを務めるノーマの許に、一七九七村という密林地帯の村民に託され、その村の行方不明者のリストを携えた少年ビクトルが訪ねてくる。ビクトルと彼に付き添ってきた首都出身の教師エリアス・マナウが実際のラジオ番組に出演するまでが小説の外枠。それまでの数日間の行動の合間に、カットバックの手法によってノーマとビクトル、それに国の内戦の過去が語られていく。


先週の発表が、terruco(田舎に潜伏して活動するゲリラ)という存在の共通性からマリオ・バルガス=リョサ『アンデスのリトゥーマ』との比較に及ぶものだった。『ロスト・シティ・レディオ』もまた、先住民の集落に足を踏み入れる首都の知識人/ゲリラというテーマにおいてバルガス=リョサとの比較が有効かもしれない。たとえば『密林の語り部』との。そしてまたカットバックの手法の多用という形式的側面においても、比較ができそうだ。

2014年12月6日土曜日

友あり

愛用のOlympus OM-D E-M10に今度こんなレンズをつけてみた。25mm単焦点の標準レンズ。f1.8のかなり明るいもの。

f3.5でもこんな感じ。

で、この空の青さと浮き出る卒塔婆など、撮ってみた。

友あり、遠方より食を携えて来たり。また楽しからずや。カプレーゼにバジルが浮いて見える。


夜の御徒町駅前。ストロボなしでこの絵が撮れる。

あ、しまった! 昨日のShakespeare、撮ってくればよかった。

2014年12月4日木曜日

シェイクスピアの偉大さについて

上野に行く用があったので、そこから歩いて大学に向かった。湯島天神の横に出るのに、なんと言っただろう? 不忍池の南端から一本入った、いわばいかがわしい通りを抜けた。呼び込みのあんちゃんたちがすり寄ってくるのをかわしながら歩くぼくの目に飛び込んできたのが、水着の女の子がふたりでこちらを見ている立て看板。書いてある屋号は:

Shakespeare
シェークスピア

参ったな。立ち止まってまじまじと確認しちまったよ。

これはいわゆるキャバクラだろうか? それとももっと違う範疇の店か? あるいは射精産業なのか? 店名に心奪われて、そのカテゴリーの見極めができなかった(そもそもそれが明記してあったのかも定かではない)。

カテゴリーがどうであれ、人見知りの対人恐怖症気味なぼくとしては、そんな見ず知らずの女性のいる店にさして興味はないのだが、でも、どうしよう、グローブ座みたいな内装の店で、壁には、

To be or not to be.

とか、

It is the cause. Yet I'll not shed her blood,
Not scar that whiter skin of hers than snow.
And smooth as monumental alabaster.

なんて貼り紙(?)がしてあったら……

ぼくにはこんなお店やこんなお店で働く人の清廉さを問題にする気もないし、そういう立場にもないが、シェイクスピア(ぼくはこの表記でいく)という名がこういう店でも何らかの力(わいせつ? エロス? 淫靡?)を持ちうるのだという事実に、なんだか素直に感心してしまった。

シェイクスビアは偉大だ。


(カメラをバッグに忍ばせていたはずなのに、写真を撮るのを忘れたことだけが悔やまれる。代わりに、今日送られてきた投票所入場整理券の写真を添えておこう……代わりになるのか?)

2014年12月3日水曜日

流通の都合について

J. Herbin のビュヴァール、すなわち吸い取り紙。

ぼくは主に万年筆をつかうので、こうしたものをノートに栞代わりに挟んでおき、インクの他ページへの移りを防いでいる。普通の紙でも良かったのかもしれないけれども、あるとき、Amazonで見つけて取り寄せ、使っていた。ノート1冊使い終わるころには紙もインク汚れだらけになるので、1冊1枚だ。

これがこのセットの最後の1枚だったのでまた買わなければ、と思っていた。Amazonで検索したところ、見つからなかった。

他のサイト(分度器ドットコム)で見つけて注文したからいいのだが、……はて、どうしたのだろう?

ネット販売の契約にはいろいろな条件があろうから、折り合いがつかなくなったのか、単に切らしているだけなのか?


まあいいや。ともかく、補充はできた。大きさもノートに挟むのにちょうどよくて、重宝するひと品。

2014年12月2日火曜日

「壁ドン」とは何の丼だ、とつぶやいてみる

日付が変わったが、12月1日には流行語大賞の発表があった。ノミネートされた語の中に「壁ドン」というのがあった。壁を背にした女の子を男が追い詰め、壁に「ドン」と手を突き、迫る、というもの。

それを「壁ドン」と名づける命名センスのなさに、まずは驚け。そんなセンスのない名が流行語になってしまうことにもっと驚け。あきれろ。

で、次なる問題。これについて、ある人が、Facebook上で、そんなことされたら怖くないかな、と書いていた。ぼくは早速反応して、こういうコメントを書いた。

威嚇ですね。相手を追い詰める行為です。ぼくならそんなことされたら、顎に掌底を入れ、腹(または股間)に膝蹴りを入れます。あくまで反射的に。

誰かが、いや、あれはされる女の子もその先を期待しているからいいんじゃないの、と書いてきた。

ふむ。そうかもしれない。しかし、ぼくにはまだ言いたいことがあった。だから書きこんだ。こういうことだ。

 ぼくは高校3年生の時、180cm100kgの友人(その直前まで友人だと思っていた男)に同様の仕打ちを受けたことがあります。もちろん、ぼくには「期待」などありませんでした。彼にしたところで悪意もないし、性的(?)な意図もない。突発的な思いつきの冗談だったようです。でもそれは本当にびっくりするできごとでした。上で書いたほど効果的な反射行動は取れなかったけれども、ぼくは一瞬後に蹴りを入れ、喧嘩に発展しました。彼は謝り、ぼくもそれ以上は追求しませんでしたが、その後、ほとんどしゃべらなくなりました。  
 本当に「期待」が存在していればいいのかもしれませんが、こんなものが流行語になるほど流行るのだとすれば、勘違いする輩はいないわけではないでしょう。心配です。  
 「期待」も存在しないのにそんなことをされて、そこに好意が生まれるとすれば、それはまるでショック・ドクトリンというか、洗脳というか、そんなものだと考えるのは飛躍が過ぎるでしょうか? いずれにしろふたりで同じ恐怖をくぐり抜ける吊り橋効果とは少し違うと思います。 
 少なくとも、追い詰められて脅されることを待ち望む人間の気持ちはぼくにはわかりませんね。 
 失礼しました。ついこんなことを書かねばならないほど、ぼくはその高校3年生の経験に傷つけられているのだと思います。

もちろん、呼称が「壁ドン」であっても、乱暴にではなく、そっと壁に手を置けば、それほどの恐怖は引き起こさないのかもしれない。けれども、追い詰める体勢なのは変わりがない。ぼくは、そんなものを待ちわびる、「ショック・ドクトリン」を「洗脳」を待望する時代が怖い。


ま、実生活で「壁ドン」(この語感も、あくまでも嫌いだな)をする人などほとんどいないとは思うけれどもね。だけどな、流行になっちゃうと、本当に、勘違いしてやりたがるやつがいると思うのだよな……

2014年11月30日日曜日

糞尿譚、というか、尿尿譚……?

まずは傍系の前提。学生のころに聞いた(うろ覚えの)エピソード。ある大家(ぼくらの先生たちの世代の人が教わった先生)が教え子(つまりぼくらの先生たちくらいの世代)と共訳の本を出したはいいが、そのあとがきに「小便をおしっこと訳すような小娘」と仕事をしたのは間違いだったとかなんとか、そんなことを書いたとか書かないとか……少なくともぼくはそれを確認していない。あくまでも伝聞だ。うろ覚えの伝聞だ。でもまあ、ある種のオブセッションではある。

さて、ところで、俗語でもない語を俗語風に訳す翻訳(や映画字幕)をぼくはあまり信用しない。つまり、同様に、幼児語でないものを幼児語に訳すのはいかがなものかと思う。

さて、ある翻訳で3度ほど「おしっこ」という語が出てきた。原文を持っていないので確認していないのだが、文脈から考えるに幼児語が使われているとは考えにくい場所だ。言語はmeadaとかorinaではないかと推測される。ここではその翻訳を非難する意図はないので、それに少し違和感を抱いたということだけを指摘しておこう。上のエピソードを思い出した、とだけ。

その後、テレビか何かで、やはり幼児語でもないはずなのに「小便」の代わりに「おしっこ」と使われているのを聞いた。なるほど、ある種の語彙は幼児化する方向に行っているのだな。それが日本語の流れなのだな。

けっ! 馬鹿な話だ。

orinarやmearは「小便する」であり、「(お)しっこする」ではない。大辞林にも書いてある。「しっこ」は「小便の幼児語」だ。ぼくが翻訳するなら、少なくとも、そう訳す。幼児語でない「おしっこ」があるなら、幼児語はどう訳せばいいというのだ? 「しーしー」か?

が、しかるに、今回、ある小説の翻訳をしていたらpipiやらcacaやらの幼児語が出てきてしまったのだ。

参ったな……「おしっこ」とか「うんち」とか使っちまったよ。

使っちまったのは構わないのだが、ぼくのような人間から勘違いされはしないか、それだけが心配だ。今訳している小説というのは話者が宇宙人で、彼の言語運用がちぐはぐなところも面白さのひとつだ。だからときどき、こうした幼児語も使われる。ここは下手に大人風の発話をさせては、翻訳者としては裏切り者になってしまう。ジレンマなのだ。


うーん……みんな、わかってくれるかな……心配だなあ……

2014年11月23日日曜日

いわゆる”夢オチ"というのではなく

アレハンドロ・カソーナ『海の上の7つの叫び』(1952)は、大西洋横断客船の中の上級客室の8人が船長に呼び集められ、これから始まる戦争でこの船がおとりとなって沈められることが決まっている、だから銘々、覚悟を決め、自らの人生において犯した罪を告白するように、と命じられる話。妻への自殺教唆や売春の過去など、上流階級の人士の集まりのはずが、ひとりひとりはあまり立派ではない過去を抱えていることが明るみに出される。

ちょっと前に、あるところで、この船長役を演じている人物に会い、観に来てくださいよ、と言われていつものごとく安請け合いしたので、見に行ったという次第。

外語祭のスペイン語劇のことだ。ブエノスアイレスで初演されたこの亡命スペイン人劇作家による作品には食指を動かされたこともあり、約束を守って行ってきた。

台詞回し、というか、スペイン語のセリフの感じは、近年で一番のできだったと思う。もちろん、個人差はあるし、個々の音や個別の単語などでまずい発音はあるものの、リズムやイントネーション、スピードなどは平均的に良かった。演技そのものはまだまだ研鑽の余地が残ったという印象だが。

内容からわかるように、もちろん、言葉のやりとりが生命線であるような戯曲だ。セットや演出などに凝った味を出すのは難しい。だからこそ、その良くできた台詞回しに見合う身のこなし(演技というよりは、これだ。身のこなし)がもう少し訓練されているとよかったな、ということ。身のこなしと、間。

でも、しかし、演出はどこへ行ったのだ? パンフレットに書いてくれないと記載できないぞ。


字幕はこの写真のようにプロジェクタをセットして投影していた。こんな風に壁にポールでくくりつけた形は初めてだったのではないだろうか? 

休日終日旧交を温める

行ってきた。東京外国語大学の学園祭、外語祭。

ぼくだって学部学生だった5年間は何らかの形でコミットしたし、楽しんでいた。大学院に進学すると、あまりかかわらなくなった。外語の教員になった2004年は、もうキャンパスも移転した後だったし、ずいぶん様変わりしてしまった外語祭(料理店がすべて屋外)には戸惑いつつ、別ものだと思えばいいのだと独りごちながら、結局、在任中の9年間、毎年必ず1日か2日は行くことになった。

昨日のNHKの朝の番組では子供と行ける学祭として紹介もされていた。実際、子供連れの近隣住民も多く見かける(この近所に住んでいるある作家も、訪ねるのだと言っていたな)。一方でOBOGもたくさん来る学祭と言っていい。外語時代の教え子たちも卒業後もこの時期によく見かけた。

さて、今では他大学勤務となったぼくは、OBとして、と言うべきなのか、卒業生に連れられて、と言った方がどうやらよさそうな感じだが、そんな風にして、昨日も行ってきたのだった、外語祭。

で、なんとなく思うのだが、こうして卒業後も親しくぼくを誘ってくれる人たちは、外語祭にもよく行く。


……ような気がする……なんとなく……

2014年11月20日木曜日

出来

港千尋監修、金子遊・東志保編『クリス・マルケル 遊動と闘争のシネアスト』(森話社2014)

ここに「祝祭と革命 クリス・マルケルとラテンアメリカ」という文章を寄稿している。クリス・マルケルはキューバ、ブラジル、チリ、などラテンアメリカの国々を題材にドキュメンタリーを撮っている。彼が製作に名を連ねた『チリの闘い』の監督パトリシオ・グスマンとの関係のこと、後に自身の作品の数に入れなかったけれども、だからといって忘れるにはあまりにも惜しい『キューバ・シ!』の描き得たもののことなどを書いている。


買ってね。

2014年11月14日金曜日

変化する色

Claveという辞書の初版に寄せた序文でガブリエル・ガルシア=マルケスは、ある日、amarilloを引き、そこに「レモンの色」と書いてあったので、「闇の中にとり残された」と書いている。コロンビアやメキシコ、キューバなど、彼の知る国々ではレモンは黄色ではない。緑色だ。むしろライムのような色だ。

そのClaveのamarilloの欄に「レモンの色」と定義があるのだから、皮肉なものだ。

ところで、今回のアカデミアの辞書改訂は、その黄色=レモン色に関して微妙な変化があった。limón(レモン)の定義は前の版では「常に黄色」だったのが、今回、「しばしば黄色」に書き換えられている。amarillo(黄色)の定義は「黄金やレモン、エニシダ、等々に似た色」だったのが、今回は「黄金か卵の黄身に似た色」と、レモンが抜けている。

もちろん、ガルシア=マルケスのみの功績ではないのかもしれないが、アカデミアはレモンが黄色だという立場を変えたのだ。


素晴らしい。

注) その後、こういう指摘をうけた。つまり上に書いたような定義の変化は既に22版においてなされているということだ。なるほど、そのとおり。ぼくはうっかり、手許にあった版を引いて、それが22版だと思い込んでいたのだが、実はそれ、21版だった。22版は今は手許にないのだった(どこに行ったのだろう? 実家か? 書庫か?)。

買ったばかりの23版を捲っていて、たまたまlimónの項目が目にとまり、そこでガルシア=マルケスの言葉を思い出し、読んでみると、あれ? と思い、手許にあった旧版(21版)を引いてみて、違いに気づいて、amarilloも違いを確認し、そして上の文章を書いたのだった。


不明と軽率を恥じる次第だ。ここで書いた記事は13年前のものと思っていただければ幸甚。

鼻腔を拡張するについて

内視鏡の検査に行ってきた。事前に採取された血液の検査結果はおおむね問題ないが、中性脂肪の値が少し高め、とのこと。

ああ、おれはもうすっかり肥満児なのか! 

……「児」ですらないか。肥満中年。

まず鼻に噴霧薬を入れられた。右の鼻の方が通りがよさそうだ。しばらくして右の鼻だけに麻酔。ゼリー状のものを少しずつ流し込む。それでまた時間を見る。洟垂れ小僧になった気分だ。

鼻からの内視鏡は、確かに、喉に詰まることもなく、スムーズに行くのだが、喉が人工的に広げられているという感覚は拭いがたい。よく見えるようにと胃に水を送って洗浄したりしながらの撮影なものだから、腹がふくれる感じがしてどうにもやるせない。何かを切り取る器具のようなものまで挿入されたので、色めいた。

特に問題はないとのこと。胃の中ほどが赤くなっていたので、万が一を考えて細胞を採取したのだとのこと。最悪の場合はこれが癌などのごく初期の徴候のこともありうるが、まあ見る限りそこまでではないでしょう、胃炎か何かでは、とのこと。

その後、神保町まで出張って買ってきた。Diccionario de la lengua española. スペイン王立アカデミーの辞書の第23版。箱入りだ。

これを買いに行く途中に、大学時代の先輩と出くわす。信山社から出てきたところで、

エウヘニオ・コセリウ『言語変化という問題 共時態、通時態、歴史』田中克彦訳(岩波文庫)

を買って出てきたところだという。今日出たばかりなのだ。コセリウが文庫になったのだぞ、ぜひ買え、とのことだったので、これも買ってきた。


内視鏡を入れ、細胞を採取した今日は胃にやさしいものを食べろと言われたので、赤門近くのそばや〈江川〉で昼食。そばが胃にやさしいのかどうか、実のところは知らない。ここのそばがうまいことは知っている。

2014年11月12日水曜日

遠回しにお叱りを受ける?

ヘタフェ・ネグロ延長戦?@セルバンテス文化センター

ヘタフェ・ネグロというのは暗黒小説フェスティヴァルの名前で、それの実行委員でもある作家ロレンソ・シルバと、イグナシオ・デル・バジェが逢坂剛と語り合うという催し。例の支倉常長400年を祝う年の延長で、つい最近閉幕したばかりの暗黒小説祭の延長、という触れ込み。今年の第7回ヘタフェ・ネグロは日本年で、角田光代がゲストとして呼ばれた由。

ロレンソ・シルバがスペインにおける暗黒小説の歴史や情勢をおさらいし、東野圭吾や吉田修一ら、最近の日本のこのジャンルの小説でスペイン語に翻訳されたものも含め、暗黒小説が読まれる理由を分析。デル・バジェが自分の作品について説明し、逢坂剛が互いの翻訳が少ないことを嘆いた。

逢坂が言うにはマヌエル・バスケス=モンタルバンとカルロス・ルイス=サフォンくらいしか日本語で読めるスペインのミステリはない、翻訳家も少ない、もう少しがんばれ、とのこと。実際には翻訳家がいるだけではどうしようもなく、出版社が動かねばならないと思うのだが……そしてまた、たとえばアルトゥーロ・ペレス=レベルテなどを含めたらもう少しは日本語に訳されているとは思うのだが……

暗黒小説Novela negraという語について質問が出て、それについて色々とぼくも考えるところがあったのだが、そこで時間切れ。


シルバとデル・バジェは今日は東大駒場キャンパスでお話しする。ぼくは授業があって聴きに行けない。残念。

2014年11月8日土曜日

あっちが開けばこっちが閉じる

OSX Yosemiteにアップグレードしてから、いつも使っているエディタにちょっとした不具合が生じるようになった。ツールバー上のアイコンで「保存」をクリックするとダウンしてしまうという不具合。他の方法で回避できるので、大して気にもならなかった。(たとえばぼくはこのブログをエディタで書いてからコピー&ペーストでブロガーの記事にしている)今朝、エディタのアップデートがあったので、その不具合は解消された。

……が! 

こんどはブログが開かなくなってしまった。SleipnirでもFireFoxでもSafariでもGoogle Chromeでも。唯一、オペラだけがブログを開くことができた。

うーむ……

仔細に検討してみたら、URLが微妙に変わっていたのだ。".jp"から".in"へと国が変わっていた。

……そうか。もうjpのドメインはないのだな。インドへ行ってしまったのだな。Googleは日本を見限ったのだな。見限ったのかな? 


うーむ……

2014年11月7日金曜日

歩けば何かが見つかる

そんなわけで、比較的近所にあった内視鏡検査のできる病院に行ってきた。行って血液検査やらをして、内視鏡については予約を取ったわけだ。

1年ちょっと前に越してきた今のアパートの最寄りの駅は、まあJR東日本の駅の中でももっとも寂れたものではあるまいかと思えるほどのものだ。駅前に商店街もなく、商店もほとんどなく……向こう側に渡っても八百屋がひとつあるくらいで……と思ったのだが、別の路線が通る線路を渡ってみると、意外なことに「○○銀座商店街」があったのだった。すべての銀座商店街同様、いかにも、本家の銀座には足もとにも及ばないのだが、まあそれでもぼくが住む側の周辺地帯よりは確かに商店が軒を連ねる商店街があったのだった。

喫茶店もいくつかあった。


うーむ、こんなことなっているとは……

2014年11月6日木曜日

病は検査から?

先日受診した胃の検診の結果が出てきて、噴門部のひだがちょっと変だから内視鏡で検査しろとのこと。

噴門部というのは食道と胃の接合部のあたり。食物を飲み込むときには開き、消化しているときには閉じて逆流を防ぐ箇所らしい。それがどんな場所であれ、健康診断で引っかかるのは初めての話だ。

やれやれ。自覚症状はなかったのだが、検査しろと言われると、なにやら具合が悪くなってくる。そういえばこのところ食が細っている気もする、などと考えすぎたりする。ぼくには心気症の気があると言われたことがある。心気症というのは自分が病気ではないかと気にしてしまう症候のことだが、まったく、そのとおりだ。検査しろと言われて、病気になった気分だ。

内視鏡の検査というのはこれで二度目なのだが、なんだか気が重い。

気が重い、と思っていたら、あまり引き受けたくない方の仕事が回ってきたりして、ますます重い。


やれやれ。

2014年10月31日金曜日

一種の催促……?

立て続けだなあ。すごいな。

都甲幸治『生き延びるための世界文学 21世紀の24冊』(新潮社、2014)

このあいだ『狂喜の読み屋』(共和国、2014)を出したばかりだと思ったら、また新しい1冊が出ている。

『新潮』連載の「世界同時文学を読む」2年分の書評というか、本の紹介と3つばかりのエッセイ、それにジュノ・ディアスの短編「モンストロ」(久保尚美と共訳)を収めた1冊。

サンティアゴ・ロンカリオーロ(都甲さんはロンカグリオーロと表記)を中心に、『グランタ』が評価するスペイン語圏の若手注目株を扱った章など、色々な人に読んでいただきたいな。ぼくら(というのは、スペイン語圏をフィールドとする者、ということ)がこれいいよ、と言ったくらいではなかなか企画通してくれないものな。

末尾についたディアスの短編は、当初、ゾンビものかとの予想を抱かせる。ハイチで人の顔が黒くなるという奇妙な伝染病が生じる話から始まるのだ。それにかかった者たちは群れたがり、他の者たちから引き離すとおかしくなってしまうという。ところが、ハイチの隣のドミニカ共和国に、合衆国で大学(名門ブラウン大学)に通う語り手が、母の病気見舞いに戻ってくるという2つのプロットが始まると、一気にジュノ・ディアスのお馴染みの世界になる。語り手=主人公は超大金持ちの学友アレックスとつるみ、フランスに憧れ国を出たがっている美人のミスティをどうにかものにしようと口説いている。

ところが、そんなことをしているうちに、ハイチでは例の病気の感染者たちが大変なことになり、軍隊が出動し、やがて……と話が急展開する。うーむ、これは今翻訳中のある作品を彷彿させるぞ。


……と、そういえば、早く翻訳、しなくっちゃ。都甲さんに返礼の献本をしなければ。

2014年10月30日木曜日

まとめて事後報告(4)

色々なことに追い立てられ、ほとんどブログのことを忘れたまま放置してしまった。ぼくを追い立てていたのは書類仕事やら原稿やらだったわけだが、その間、いくつかイベントに参加した。

14日(火)には『スガラムルディの魔女』公開記念イベントでアレックス・デ・ラ・イグレシアと妻のカロリーナ・バング(今回の映画に出演している)のトークショウに出かけた。「祖母は本物の狂人だったけど、病院には入れずに自宅で一緒に暮らしていた。あるとき市長が家に来ていたんだけど、祖母は裸で私を殺すな、と叫んでばかりいるものだから、抑えつけるのに苦労した。そうしたことも後から振り返ればなんだかおかしい」というような話をしていた。

もちろん、準備として見て行ったさ、今回同時上映の『刺さった男』(2012)。

失業した広告マンのロベルト(ホセ・モタ)が遺跡発掘現場で高所から落ち、頭に鉄骨が刺さってしまい、大騒ぎになる話。特異な立場にある自らを、この機に乗じて商品化しようと企む展開が、頭に刺さった鉄骨以上に痛いのだった。

25日(土)には沖縄の高校生たちをお招きして模擬授業と大学、および文学部、あるいは現代文芸論研究室の説明をした。沖縄のいくつかの高校の生徒たちが大挙して東大や一橋、外語大(文系コースの場合)などを訪れる、という、そんな企画。

が、何といっても最大のイベントは:Actualidad de Octavio Paz

パスの生誕百周年の年だ。メキシコから詩人のアルマンド・ゴンサーレス=トーレスとフリアン・ヘルベルトを招き、パスについて語っていただいた。28日(火)のこと。

色々と面白い指摘があったけれども、ヘルベルトの指摘したポイントは考えさせられる。パスは自分のよく知らない言語の翻訳にこそ力を入れていた、と言う話。いつもはしかつめらしい態度のパスが、インドでコルターサルや現地の人々と楽しそうに踊っている動画を流しつつ、そうした相矛盾する態度にポエジーを見出す発言だった。


しかし、よく通じていない言語をこそ翻訳する、という指摘は、翻訳論の文脈に置いても面白いかもしれない。たとえば古代ギリシヤのテクストをいくつか訳しているアルフォンソ・レイェスに関して、実はギリシヤ語はそれほどできなかった、という事実が「脱神話化」として語られた。それはつまり、よく知らない言語を訳しているという批判でありえたはずだ。が、よく知らない言語をこそ訳すところに詩的誠実さを見るというのは、そうした翻訳と外国語習得をめぐる神話を逆の側から脱神話化する視点ではないのか?

2014年10月13日月曜日

黄色と緑の互換性について

ラテンビート映画祭で見てきた。アルベルト・アルベロ『解放者ボリバル』(ベネズエラ、スペイン、2013)

今をときめくグスタボ・ドゥダメルが音楽を担当する解放者の伝記映画。

これだけ劇的な人物の半生をいろいろと盛り込もうとするのだから、大変だ。さして英雄然としない、単なる金持ちのボンボンだった青年時代、妻マリア・テレサを失って失意のうちに過ごす時代、恩師シモン・ロドリゲスにさとされ、目覚めるパリ、ミランダ将軍との関係……等々。

たぶん、ハリウッドの超大作ほどの人数は動員していないのだけど、撮影用ヘリコプターなどを多用したカメラワークでかなりの大がかりなスペクタクルに作り上げ、見せてている。

実際にはボリーバルについての映画を撮るのなら、時期を小さく絞っても濃密な話が作れるのではないかという印象。

少し傍系の話を。前半、グアバの実が印象的に使われる。シモン(エドガル・ラミーレス)がスペインで得た妻マリア・テレサ(マリア・バルベルデ)に食べさせる、官能のシーン。彼女が黄熱病にかかってから食べさせるシーン、最初にカラカスを陥落してしばらくぶりに家に戻って来たボリーバルが、彼女の死んだベッドにグアバを一個置くシーン。それらで使われているグアバは、黄色い。が、ぼくの知る、ぼくの育った家の裏庭になっていたグアバ(ばんじろう、というのが和名)は緑色なのだ!

緑/黄の対照といえば、レモンがある。アメリカ大陸のスペイン語圏でいうlimónはむしろライムに似て、我々の認識する黄色い果物ではない。そのことはガルシア=マルケスもある辞書の定義について語りながら触れている。


ボリーバルは死んだ妻のベッドに黄色いレモンならぬグアバを置いていく。いろいろと想像させられる。

大阪から戻ってきた〔事後報告〔3〕〕

土・日と 日本イスパニヤ学会第60回大会@大阪大学箕面キャンパス に出席してきたのだ。箕面キャンパスとは、つまり、旧大阪外大だ。

ぼくは理事なので初日午前中の理事会から出席。そして初日の午後のセッションと二日目の午前のセッション、2回も司会を務める羽目に! やれやれ。おかげで他の分科会で行われている他の発表を聞けなかったりもしたが、反面、1940年代スペインでヒッチコックの『レベッカ』がヒットしたことなど、面白いお話も聞けたのだった。

50回大会の記念講演は作家のルイス・ゴイティソロだったが、今回はイグナシオ・ボスケ。ぼくもお世話になっているREDESという辞書の編纂などで知られる泰斗。妻のフアナ・ヒルを伴い。初日には夫の講演、二日目には妻の専門領域音声学の知見を発音教育に活かそう、というワークショップが行われた。

ぼくは、そういえば、講読の授業なのに、学生の発音(リズムやイントネーションらを含めて、ということ)を矯正することに夢中になっているとのこと。学生たちやかつての学生たちは、授業中、何十分も発音の練習をさせられた、と回顧する。ヒル先生の話から判断するなら、そうした態度は悪くはないのだろうけれども、もう少しデリケートなやり方でやらねばならないようだ。ふむふむ。

初日の夜は懇親会が開かれるのが通常で、それに出席したのだが、二次会には最寄りの駅前のビル内に、中学時代の友人が店長を務める居酒屋があったので(そのことを最近、知ったのだが)、そこに行ったのだった。ごちそうさま。


(写真は梅田のビルHEP FIVEにある観覧車)

2014年10月10日金曜日

事後報告(2)

そんなわけで、昨日はノーベル文学賞の発表微だったのだ。パトリック・モディアノに決まったのだ。特にこうした賞に興味はないのだが、何人かラテンアメリカの作家たちがノミネートされているという情報があり、その人たちが受賞したらコメントを、と言われて準備したりしているので、結果発表を注視しないではいられない。

で、そうした職業上の興味以上に、他部門のノーベル賞にだって興味ないのだが、今回の物理学賞にはとても複雑な思いを抱かずにはいられない。

1. たいていの国のメディアはアメリカ合衆国の市民権を獲得している中村修二をアメリカ人としているのだが、日本のメディアはあくまでも日本人扱い。まあこれはいつものことだ。

2. 青色発光ダイオードを実用化したこの人は、勤務先の日亜化学に発明の対価を求めて訴訟を起こし、勝訴、控訴されると和解に持ち込んだ。そして(順番は前後するかもしれないけれど)UCサンタバーバラに招かれて行った。この辺の経緯は、リアルタイムでいろいろと報じられていたはずだ。

3.それなのにメディアはそのことを忘れたかのように、「日本には研究の自由がない」という中村さんの言葉を再生産する。彼の言う「研究の自由」は、いささか複雑な話だと思う。こんな証言もあることだし。一方で、今年8月、会社員の取得した特許は会社のものに属するという法律が作られたことも忘れてしまっているかのようだ。中村さんは逆手に利用されて、こうした悪法のきっかけを作ってしまった人なのだ。

4.その中村さん、どこかのインタビューに答え、「基礎研究にだけ与えられる賞だと思っていたので、応用科学である私にいただけて嬉しい」と発言していた。これは、ノーベル賞にとっても大きな一歩なのかもしれない。ますます基礎研究の肩身が狭くなるのかもしれない。他のふたり、国籍の点でも日本人であるふたりの行った基礎研究にこそ注目が注がれた方がいいと思うのだ、大学人としては。そのことを大切に思う人が言う「日本には研究の自由がない」と中村さんの発話とは、ちょっと違うことなのだけどな。それを認識しなければ。

で、ともかく、そんな中村さんを迎え入れたUCサンタバーバラのような体制ができる環境から、日本の大学はますます遠ざかっていくのだろうな、というのが悲しい直感。


今日はこれから大阪だ。

2014年10月8日水曜日

事後報告

立教大学でやってきた。10月4日(土)、「ガルシア=マルケスを読む――ガルシア=マルケス受容の来し方行く末」。思ったより聴衆がいて、当初借りていたより大きな教室に移動しての2時間。

ぼくは「ガルシア=マルケスは誰が読んでいたのか――1983年、日本」と題して、83年(前後)に『百年の孤独』を取り込んで気づかれた例と気づかれなかった例を比べて作家たちの『百年の孤独』理解の差を問うた。

気づかれた例とは寺山修司『さらば箱舟』。気づかれなかった例は伊井直行『草のかんむり』。

ここでも何度か書いたとおり、『草のかんむり』は『百年の孤独』を上手く採り入れた小説だ。その採り入れ方、その基にある『百年の孤独』理解を寺山修司による理解との対比で考察したのだった。

こういう話をした以上は、文章化してどこかに発表しておこうと思っている。

ちなみに、1983年というのはガルシア=マルケスがノーベル賞を獲った翌年。


ノーベル文学賞の発表は、もうすぐだ。

2014年10月1日水曜日

授業が始まった

授業が始まった。

やれやれ。

前に告知したように、こんな催しでガルシア=マルケスの受容について話す。1983年、日本についてだ。あるふたつの『百年の孤独』の取り込みの形と、それが気づかれたのと気づかれなかったのとの差を考える。

そんなわけで、そのひとつは寺山修司の『さらば、箱舟』で、それを見返したりしているのだが、言いたいことがたくさん出てきて困る。

ある小説との対比で、その差は奈辺にあるか、などと問いかけたいのだ。寺山の例はとてもわかりやすい取り込みだけれども、その取り込み方はだいぶもうひとつの例と違うのではないか、と思うのだな。

さて、ところでぼくはそれら一篇の小説と一本の映画を、『百年の孤独』以前に知ったのだった。これらを『百年の孤独』の取り込みとして論じるためには、ぼくの記憶にひとつの転倒を加えなければならないのだ。

今日、非常勤先の早稲田大学で、19世紀の作品から見ていこうとして教材をコピーしながら、ふと思った。なぜぼくはこんな風にお行儀良く文学史風に時代を下っていくのだろう? ぼくらはだいたい、現代のものから馴染んで、時代を遡り、古典を愉しむようになるんじゃないのか? 


来年はちょっと逆向き文学史観というのを展開してみようかと思う。

2014年9月28日日曜日

謎の名盤

昔、二十歳になるかならないかのころ、レコード屋(CDの出現以前の話だ)を冷やかしていて、ある1枚に出会った。イ・ムジチの演奏するヴィヴァルディ『調和の幻想』曲集。全曲集だったと思う。そのとき、村上春樹『1973年のピンボール』で、大学のバリケードを破って機動隊が突入したときに、これがフル・ヴォリュームで流れていたという「神話」が書かれていたのを思いだした。

で、買って帰ったのだ。

当時は手持ちのレコードも少なかったので、何度も聴いた。

時は流れ、もう何年も前にレコードはすべて処分した。レコードで持っていたもののうち、捨てがたいものはCD版を買ったものもある。『調和の幻想』は、今ではイタリア合奏団の演奏するやつ(タイトルは『調和の霊感』)で持っている。2枚組の全曲集で、1番から順番に入っている。

今ではヘビーローテーションには入っていないこのアルバムを聴くたびにびっくりすることがある。ぼくがかつて「調和の霊感」1番だと思って聴いていた曲が、実は6番であるという事実だ。つまり、ぼくがもっていたイ・ムジチ版『調和の幻想』曲集は6番から始まっていたのだ。

うーむ、どういうことだろう。全曲集だと思っていたのが、実はそうではなく、6番と8番と……というふうに抜粋しただけの曲集だったということだろうか? ぼくが持っていたレコードのCD版だと思われる(ジャケットが似ている)CDには、アマゾンで見る限り、1番から順番に入っているようだ。

うーむ……


あ、こんなことを書くのは、今、その『調和の霊感』を聴きながら仕事をしていたからだ。久しぶりに聴くととてもいい曲ばかりだ。3番など、大学に機動隊が突入するの図にぴったりのBGMになりそう。

ガボについて語るのだ

立教大学でこんな催しがある。もう1週間を切った。

ガルシア=マルケスについて語るのだ。「ガルシア=マルケスは誰が読んでいたのか?」

できればこれに、「1983年、日本」と副題をつけて考えていただきたい。ある小説が『百年の孤独』に負っているところが多いのに、まったく気づかれなかった話を出発点に、ひとりの作家が読まれ、採り入れられるとはどういうことかを考えていただこうと思っている。

考えていただこうと思っているのだ。考えようと思っているのではなく。自分ひとりで考えられるほど、簡単な話ではないのだ。


よかったら、是非、次の土曜日は立教大学へ。

2014年9月25日木曜日

永遠の噓をついた……のか?

ある人からカルペンティエールについて本を書かないかと言われ、その気になっているわけだ。エドガー・ヴァレーズの未完に終わったオペラのための、ロベール・デスノスとともに書いた台本など、初期の作品の研究が展開している近年、そういった動向に今ひとつついていけていないぼくとしては、いい機会だからまとめておこうと思ったのだ。手始めは、まだ日本語ではちゃんと発表していないベネズエラ時代(1945-59)の話かな?

で、この際だから、きちんと考えておかなければならないことがある。アレホ・カルペンティエールの言語使用についてだ。

もう20年ほど前に出生証明が公になり、カルペンティエールはスイスのローザンヌ生まれでどうやら間違いないということになった。名前もアレホAlejoではなくアレクシスAlexis。これをして単に嘘つきと難じるのは詮無きことだ。小説家が嘘つきで何が悪い。

カルペンティエールを論じて常に興味深い論点を出しているイェール大学のロベルト・ゴンサーレス=エチェバリーアは、この出生の不確かさから出発して、カルペンティエール自身の説明する伝記的要素の他の謎をも挙げている(「カルペンティエールの国籍」)。

1) 1928年、ロベール・デスノスのパスポートを借りてパリに渡ったという話はにわかには信じられない。
2)  1943年にハイチに渡ったのはどういう経緯だったのか? ルイ・ジューヴェと一緒だったというが、彼はそのことについて何も発言していない。ましてや、最初のバティスタ政権下のキューバ政府の依頼でとは、どういうことだ?
3)  そしてまた、そうなると、若き日の仲間であったグラウ・サンマルティンが大統領に選任された 1945年にベネズエラに渡ったのも謎だ……等々。

こうした謎をまとめると、カルペンティエールの国籍、ステイタスは極めて不確かな怪しいものだと言わざるを得ないが、そのことを考えに入れると、俄然重要性を増す作品が、(『失われた足跡』と並んで)「種への旅」、「亡命者庇護権」のふたつの短編と『ハープと影』だ。常にユダヤ人説が囁かれるジェノヴァ出身でスペイン名を名乗りたがったコロンブスを巡る小説であるがゆえにだ。

もうひとつ面白いのはゴンサーレス=エチェバリーア自身が知り合いから得た情報として紹介する、カルペンティエールの知り合いだったという女性の話だ。カルペンティエールの母親リナというのは、父親ジョルジュの愛人だったのだと、そしてジョルジュはある日、本妻の住むカラカスに去ってしまったのだ、と語ったというのだ。だから息子がカラカスに行ったのは、死んだ実父の財産を受け取りに行ったのだ、とも。

真偽のほどはわからないとしているのだから、ぼくもお遊びとして接続するのだが、同じカラカスで、ある人物がアンヘル・ラマに対してカルペンティエールの噂話を繰り返ししていたのだった。作家が『キューバの音楽』のための調査旅行中に、友人に妻を寝取られた、という噂話だ。友人にピストルで脅され、妻と別れるはめになったのだと。でもカルペンティエールはカラカスにやって来たときには、2番目の妻リリアを伴っていた! 

ゴンサーレス=エチェバリーアがカルペンティエールの出生の問題に関して指摘している一番重要なことは、作家が創作言語としてスペイン語を選んだことを、カフカやコンラッド、ベケット、ナボコフらの世界文学Literatura universalの問題に接続していることだ。スペイン語という大きな言語で書いた者たちにも確実に存在する言語選択の問題。カルペンティエールを今、読むことの意義の最大のもののひとつは、ここに存するとぼくも思う。

カルペンティエールはもちろん、スペイン語とフランス語のバイリンガルだった。若いころには「お月様の物語」や「学生」、「エレヴェータの奇跡」といった作品をフランス語で書いている。しかし一方で、母親に書いたフランス語による手紙は、スペルミスに満ちていた。フランス語で書くためには単に「バイリンガル」と言って済ませられない努力を要したはずだ。ピカソの自伝をフランス語に訳してくれと言われて原稿を手渡された、とか、フランスでのキューバ大使館時代、公務の前に床屋に寄って髪を切ったら、オヤジから「これで立派にフランスを代表する紳士ですよ」と言ってもらった、といった自慢話をする心性は、どこかフランス語に対する負い目から出ているように思われてならない。「スペイン語の方が文学言語として豊かだから」創作言語に選んだのだと証言してはいるものの、そうとばかりは言えないような気がするのだ。でも、そして、そのわりにいつまでも "r" の発音はフランス語の発音のようであることをやめなかった。

自身の2言語状態に対する極めて両義的な思い。とりあえずカルペンティエールにはそうしたものがあるはずだ。マニアックなまでの語彙収集はそこから来ているはずだ。

2014年9月24日水曜日

勉強してきた

週末から週の初めにかけて、京都にいた。

以前書いたけれども、世界文学・語圏横断ネットワークというのに参加している。西成彦さんや和田忠彦さん、沼野充義さんなどが主導して20人ばかりの発起人を集めて結成したネットワーク。賛同人を募り、第1回の研究会を22、23日の2日間、立命館大学で開催したのだ。ぼくは発起人のひとり。

前日、やはり立命館で行われたカリブ海文学研究会に参加し、翌日からの研究会にも参加した。発表はしていない。ただ聞く側に回ったのだった。

セッションは5つ。「広域英語圏文学」、「越境とエクソフォニー」、「マイナー文学をどう理解するか」、「『日本文学』の再定義」、「『世界文学』をどう理解するか」。それぞれのセッションに3つから5つの発表があった。

ドイツ(語)との関係で創作言語に意識的にならざるを得ない中・東欧の作家たち、その(自己)翻訳の問題、植民地朝鮮の文学の立ち上げ、バスク文学などの話を聞いていると、帝国の言語であるがためにあまりにも広がりすぎたスペイン語による創作において(英語によるそれと同様)、見過ごしにされてきた問題が浮かびあがるようだ。

ついでに、観光客みたいなこともしてみた。



2014年9月10日水曜日

レオーネの呪縛? あるいはセルヒオはいつになったら正しく呼んでもらえるのだろう?

スカラ座……じゃなかった、歌舞伎座の前を通り、見てきた。スカラ座……じゃなくて、


試写に呼んでいただいたのだ。

離婚して妻のもとにいる息子セルヒオ(ガブリエル・デルガード/ただし、字幕ではセルジオ。あれだけはっきりみんなセルオと発音しているのに)への面会日に、彼を連れて貴金属店強盗に押し入ったホセ(ウーゴ・シルバ)は、行きずりの強盗仲間アントニオ(マリオ・カサス)らとともにフランスに逃亡しようとする。国境近くの町、バスク地方のスガラムルディを通るが、そこは中世の魔女裁判で有名なところで、魔女たちは今も生きつづけていて、彼女たちに捕まってしまい……

思うに映画は秘密結社の儀式(集団的狂気、松明、生け贄……)とそれを天井から覗き見る、そしてそこに割って入って攪乱するヒーローというのをたくさん描いてきた。今、デ・ラ・イグレシアは、その秘密結社を魔女たちの集団として、そこに人食いやら(場合によってはゾンビやら)のモチーフまで詰め込み、とことん再利用して、いかにも彼らしい破滅的な物語に仕上げておかしい。

何しろ魔女が扱われるのだ。最初からそれをつくり出す男性中心主義が揶揄されていて愉快だ。結末(つまり、誰が死に、誰が生き残るか)に不満を抱く者もいるかもしれないが(なんだ、結局愛が地球を救うのか、と)、魔女はまたゾンビでもあるのだ……と書いたらバレてしまいそうだが……

ともかく、魔女たちの儀式のクライマックスが面白い。おかしい。伏線は貼られていたはずなのに、びっくりする。『ゴースト・バスターズ』のような衝撃だ。笑撃だ。


……さすがだ。

2014年9月5日金曜日

教えて佐々木先生

ぼくはまあ心情としては学生を突き放したい方である。ろくな論文作法も知らずに書いてくる文章など0点にして落としてしまえばいいと考えるほうではある。が、そうするとほとんどの学生に不可をあげることになる。仕方なしに、このマニュアルに書いてある形式を守っていないレポートは不可とする、と宣言して楽をするために、レポート・論文の書き方などというものを書いて配ったのが10年ほど前の話。

外語では2012年度からだったろうか、「基礎演習」という、1年生向けの、学術スキルを訓練する授業が始まり、ぼくはその授業の準備をするためのワーキング・グループの一員だった。プランを練り、デザインした。でも実際には(幸いにも)その授業は担当することなく東大に移った。

東大は本郷である。3年生以上を相手にしていればいい……はずだった。が、来年度からのカリキュラムの改革のために、ぼくらまで初年次教育に携わることになり、どうやら、同様の、1年生向けの学術作法を教える授業を持つことになりそうだ。

やれやれ……

そんなわけで、買ってみた。佐々木健一『論文ゼミナール』(東京大学出版会、2014)

数ある論文執筆マニュアルの中では、ぼくは栩木伸明『卒論を書こう――テーマ探しからスタイルまで 第2版』(三修社、2006)が面白いかな、と思っていて、それはパラグラフ・ライティングのことをきっちり説明・例示してくれていること(それを行ってる唯一でも最初でもないけれども)と、いわばライフスタイルの提唱から入っているところがいいな、と、しかもそれは人文科学系の学生に対するよきアドヴァイスだなと思えるところなのだった。

さて、では美学藝術学の佐々木先生、どんなアプローチで論文の指導に当たられるのだろう? と思って買ったわけだな、今回。どれどれ……

ご本人も自負しているのは、論文執筆をひとつの技術(これにはアートとルビが振られる)と捉えていることだ。「困るのは、論文を書くのに特に技術など必要ではない、と思っている人びとです。卒業論文を書こうとしているひとたちに多いのではないか、と危惧します」(14)。「大学で論文の書き方が技術として教えられていないのは、それが言葉では教えることができないからです。およそ技術とは、そういうものです」(16)とたたみかけてくる。「およそ技術とは、そういうものです」! いや、ところがね、佐々木先生、最近では大学で論文の書き方を技術として教えなければならないんですよ。だからこの前提はとても励みになるんです……

「真似るために論文を読書する」という項を立てているところなども、提示のし方がいいと思う。

そして何より優れているのが、ノート/カード問題。これまでほとんどのマニュアルはカードを採ることを推奨し、かつ、ノートはカードと同様のものだとの立場に立っていたと思うのだが、佐々木は違うのだ。「ノートは(略)要約するのに適しています。それに対してカードは、著作や論文のなかで見つけた重要な文章をそのまま書き写すものです」(51)「カードをノート風に使うことは、ほとんど無意味です。それに対して、ノートをカード風に使うことはできます」(52)と差異を説明している。


うむ。早速、来年度の初年次教育、上の栩木さんの書とともに、推薦書に指定しておこう。(引用内の強調はいずれも柳原)

2014年8月30日土曜日

きょうもイベント(今日はぼくが出る)

先日の記事にほのめかしたが、パブロ・ラライン『NO』の初日最終回前、(18:40くらいから?)ちょっとお話します。(リンクが貼ってある)

初回、2回目は満席になったそうで、良かったら、ぜひ。

2014年8月29日金曜日

イベント続き


を試写会で見てきた。去年の東京国際映画祭で監督賞を受賞した作品だ。アイスランドのある村の人間模様、および彼らの馬との生活を描いたものなのだが、独特の味を醸し出していて面白い。人物たちが何かやるたびに遠くの隣家に視線を送る。すると、どの家でも太陽光を反射して鏡だからガラスだかが光っているのが見える。皆、双眼鏡で隣家の様子を観察しているのだ。

中心となるプロットはコルベイン(イングヴァル・E・シグルズソン)と未亡人らしいソルヴェーイグ(シャーロッテ・ボーヴィング)の大人同士の恋の行方。白い馬を愛でるコルベインはそれを駆ってソルヴェーイグの家に向かう。周囲の者たちが双眼鏡でその様子をうかがう。家に着くと中に迎え入れられ、息子と母ともども食事をする。ほとんどセリフらしいものはない。双眼鏡で覗く者の視点に立っているからだ。ふとした拍子に切り替わり、室内が室内から描かれることがあるが、そのとき、ソルヴェーイグはただ楽しそうに笑っているだけだ。この辺の演出も面白い。

いざ帰る段になってコルベインが愛場に跨がり、走り始めると、しばらくして馬は立ち止まる。最前から暴れていたソルヴェーイグの家の馬に反応してのことだ。馬は柵囲いを突き破り、白馬のもとにやって来て、交尾を始めるのだ。もうこの一瞬の出来事だけでこの映画の勝利は決まったようなもの。やられている(失礼!)白馬にまたがるコルベインすらもがやられた(失礼!)ような、恍惚の表情で身動きひとつできない。事を済ませた雄馬もまた、すっかり恍惚の態。しばらくは動くことすらできないのだから、面白い。

この映画の本領は、コルベインとソルヴェーイグそれぞれが、そんなおソソをしてしまった馬に対して取った処置に現れるし、それがクライマックス直前のシーンへとつながるのだが、それはまあ、ここでは語るまい。

11月上旬、公開だ。シアター・イメージフォーラムほか。午年の最後を飾る作品。

ついで池袋に向かい、トークセッション「これでわかるクッツェーの世界:『サマータイム、青年時代、少年時代』とクッツェーの文学」byくぼたのぞみ×田尻芳樹×都甲幸治@ジュンク堂書店 に行ってきた。表題に掲げられた「自伝的」3部作の刊行を記念してのイベント。ポストコロニアル×ポストモダンな局面だけではないクッツェーの魅力を拝聴する。

田尻さんは『恥辱』の最初の3行を読んでからやめられなくなったのだという。彼が原書で読んだその箇所を鴻巣友季子の訳でたどれば、「五十二歳という歳、ましてや妻と別れた男にしては、セックスの面はかなり上手く処理してきたつもりだ」。

うむ。ぼくも最初に読んだクッツェーはこの作品だったのだが、読み返してみると、この主人公の年齢に近づいている自分に驚く。そしてぼくはむしろ同じページの最後の文章に唸る。ここで主人公はソラヤという娼婦の常連であることを語っているのだが、その彼女について、「歳からすれば彼のほうは父親といっても通る。とはいえ、理屈からいえば、男は十二歳でも父親になれる」(早川書房、5ページ)。


さすがだ。

2014年8月26日火曜日

映画三題

マーク・ロマネク『わたしを離さないで』(イギリス、アメリカ、2010)を見たのは、クローン技術と小説のことを考えるためだ。クローン製作をする科学者が語り手となっている小説を訳しているので、いろいろなものをと思ったのだ。ウエルベックの『素粒子』やイシグロのこの原作、それぞれの映画化作品も見ておきたいな、と。

ところで、パブロ・ラライン『NO』(チリ、アメリカ、メキシコ、2012)は1988年のチリでのアウグスト・ピノチェト大統領信任の国民投票を描いた作品。アントニオ・スカルメタが脚本にかかわっている。これの劇場公開初日最終回の前、ヒューマントラスト・シネマ有楽町でちょっとしたお話をすることになった。ひょんなことから。20分ばかりも背景や拡がりなどを説明するのだ。


そして、えいがといえば、ついでに、こんな講座を担当する。よかったらどうぞ。

2014年8月19日火曜日

ご当地映画、との意識はぼくにはないのだが……

河瀬直美というと『萌の朱雀』の印象が強いのか、山のざわめき、森のささやきを撮るシネアストだと思いがちだ。その彼女が、実は親をたどるとそこに行き着いたという奄美大島を舞台にした映画を撮るとなれば、うむ、これは観てみようと思うわけだ。今度は彼女はサトウキビのさざめきと波のうねりを映像化したのだった。

河瀬直美というと、ロケ先に深く入り込んで脚本を書き、派手なキャストは使わず、むしろ市井の人々を起用して不思議な演出をするシネアストとの印象が強いのはやはり『萌の朱雀』のせいなのか? 今回、確かに、松田美由紀、杉本哲太、渡辺真起子に常田富士男まで起用して普通の映画なのだが、それでもやはりそこは独特な演出が効いていたのだ。何というのだろう、プロの役者の見せる安定した、演技として自然な(しかし自然な振る舞いとして不自然な)それでもなく、素人や駆け出しの役者の見せる演技としても自然の振る舞いとしても不自然なそれでもなく、なんだか間が面白い。意外にそれは、スッピン(もしくはそう見えるメイク)の俳優や環境音(木々や波のざわめき)との関係、映像との関係などから産み出されるものかもしれない。うまく把握できていないけれども、そんな気がした。

物語は高校1年生のカップルそれぞれの母との決別/和解を扱ったもの。界人(村上虹郎)は離婚した母・岬(渡辺)に連れられて東京から島に来た。父・篤(村上淳)は東京で画家を目指しながらも彫り師をやっている。物語は界人が海に浮かぶ刺青の入った全裸の水死体を見つけるところから始まるのだが、彼はその水死体に囚われているらしい。物語も終盤になって明らかになるのは、それが母の愛人ではないかと疑っていたということだ。杏子(吉永淳)は死の床にある母・イサ(松田)との別れの準備ができないでいる。ユタ神であるイサは命は受け継がれるものだとの世界観を伝えようとするのだが、高校生1年生にはすぐに納得できるはずもない。

と、概要を書いてふと思ったのだが、演出の不思議さというのは、たとえば、実の親子である村上淳と虹郎を劇中の親子として、離婚して自分を捨てた父親として対峙させているところからも来ているではなかろうか。父に運命の出会いの意味を問う息子は果たして村上虹郎なのか界人なのか、一瞬、説明がつかなくなるような表情をする。(ちなみに、虹郎の母、淳の妻UAも親は奄美の出身だ。彼女もかつて朝崎郁恵に↓の「いきゅんにゃ加那」を習っていたのをTVの深夜のドキュメンタリーで見たことがある)

死の床でイサは「いきゅんにゃ加那」を歌えと懇願する。それに応えた周囲の人々はさらに八月踊りまでしようと言い出す(オープニングに披露される踊りは「さんだまけまけ」だと認識できたのだが、この時の曲はなんだったか?)。〆に六調まで踊り出す。こうした細部を観光案内的だとみる人はいるかもしれない。けれども、恋人との別れ歌と解釈できる歌と、要するに盆踊りである八月踊りで死者を送りだすというのは、死というものに対するひとつの解釈なのだと思えばいい。

重要なポイントを担っている要素の一つは山羊をしめるシーン。オープニング・シークエンスと中ほどに出てくる。常田富士男の亀じいが山羊の喉を切って血を出し、殺すのだ。それを若いふたりと杏子の父・徹(杉本)が手伝い、見守る。山羊はなかなか死なずに、悲痛な声を挙げている。界人は顔を背ける。杏子は閉じていた山羊の目が見開かれた瞬間、「魂、抜けた」と叫ぶ。次のシーンでは杏子たちが家族3人で山羊汁を食べているのだ。冬瓜と一緒にスープにしたものを。食物連鎖と命の、魂の連鎖。



そうそう。ロケ地の用安海岸からは決して見ることのできないシーンが、この映画には、一瞬だけ出てくる。それが美しい。それが何かは、地図を見て考えてくれ。

2014年8月17日日曜日

SIMロック・フリーの時代の到来

ちょっと前に、アップルが特に何の前触れもなく、突然、アップルストアでのWifi+LTEのiPadを発売し始めた。

つまり、SIMロック解除のものを日本でもついに発売したということ。

ところで、以前からe-mobileのポケットルーターを使っている。e-mobileはいつの間にかY! mobileになった。現在のルーターは2年が経過したので、新型のやつを買った。ビックカメラの店頭で買ったのだが、そしたら、マイクロSIMカードが2枚もプレゼントされた。IIJmíoと契約すれば使えるらしい。

うむ。SIMロック・フリーの時代なのだ。それを前提としてこんなプレゼントが成り立っている。

……そのわりにY! mobileルーターは7GBの帯域制限がかかり、月にそれ以上使用したら、翌月まで通信速度が遅くなるという。前の機種はSIMロック・フリーだから、たとえば海外でその地域のカードを入れれば使うこともできるので、もっていてもお得ですよ、と言われたのだが、そのわりに新機種はそんなことなくなるんですけどね、とも。

……うーむ。何が前進であり、何が後退であるのか……うーむ、わからん。

そんなわけで、ビックカメラからもらったSIMカード、ぼくは要らないのだが、……それにマイクロSIMなのでiPadでは使えない。iPadはナノSIM。うーむ……


ところで、まだ還暦でもないのに、赤ばかりだ。赤の季節なのだ。

2014年8月13日水曜日

夢を見てきた

12日に日本イスパニヤ学会の理事会が京都であったので、前後、京都に泊まる。京都に泊まるといっても、そんなに観光らしいことをしているわけではない。でも、ともかく、会議の翌日、今日は夢を見てみた。

夢というのは、たとえばこういうことだ。

こういうもののとなりに突如として実現するものだ。

こんな庭に現れるものだ(といっても、この狸ではない)。

南禅寺の紅葉越しに眺める本堂だ。


これは夢というよりは幸せ。つまり幸せとはアップルパイのことだ。

2014年8月10日日曜日

斎藤美奈子の冴え

このところ、縁あって昔の友人たちに会う日が続いた。会えば会うだけぼくは孤独に陥る。

『早稲田文学』2014年秋号には「若い作家が読むガルシア=マルケス」という特集があるのだが、「新世代の幻想文学」というのももうひとつの特集で、それ以外にもクッツェー、デリーロ、ノーテボーム、トルスタヤらの翻訳、松田青子、多和田葉子、蓮實重彦……と執筆陣も豪華な上に、田中小実昌の未発表原稿まで掲載されていて、これが何より嬉しい。

が、ここで記しておきたいのは斎藤美奈子「村上春樹の地名感覚ーー中頓別の事例から」(198-202)

初出時、物議を醸し、単行本『女のいない男たち』に収録されるに際して書き直された「ドライブ・マイ・カー」(『文藝春秋』2013年12月号)の問題を扱っている。北海道の中頓別町というところの出身の登場人物が、タバコを窓から投げ捨てたことに対し、語り手もしくは視点人物が「たぶん中頓別町ではみんなが普通にやっていることなのだろう」と考える一節の問題だ。これに中頓別町議が連名で抗議、作家は素早く対応して、謝罪を発表し、単行本では上十二滝町という架空の地名に換えたのだった。

これに対し、大別して①フィクションなんだから目くじら立てるな、②せっかく中頓別町が全国に、全世界に知られるチャンスだったのにそれを逸した、という2つの反応があったとまとめるところまでは、おそらく、誰でもできるだろう。が、そのいずれも否定するところが斎藤美奈子の冴え。さらには②のタイプの反応を「あまりにも広告代理店式の発想で鼻白む」と評するところなど、虚を突かれるのだ。

「車がなければ生活できない」場所で、しかも「一年の半分近く道路は凍結する」、そんな町で「十代の初めから車を運転」していたからテクニックだってうまくなる、というこの問題の中頓別町出身の女性運転手渡利みさきの説明が、フィンランドから優れたカーレーサーが多く輩出されたことの説明として引き合いに出される「フライングフィン」の言説なのだとしてそこに一種の「オリエンタリズム」を読み取るに至っては、目から鱗が3枚くらいは落ちる。

「ドライブ・マイ・カー」は、その運転手みさきに、家福という人物が自らの死んだ妻のことや、その妻と浮気していた人物との奇妙な友情関係のことを語るという内容で、ぼくはここに、誰かが別の誰かに自分の体験を語るというだけでひとつの短編小説は成立するという、そのパターンのみを読み取っていた。うーむ。教えられたのだった。


ところで、この点に関して、単行本では、村上春樹が珍しくまえがきを添え、いささか抽象的に触れている。これなど作家の意趣返しのようにも思える、というのがぼくの当初の感想。謝罪でも、単行本読者に対する丁寧な説明でもない、意趣返し。その「意趣返し」の嫌味さも少し気になるところではあるのだった。

2014年8月4日月曜日

見えないものは怖い

7月31日から8月1日にかけては研究室の合宿に行ってきた。その後ばたばたあったので、報告できずじまい。代わりに(ではないか?):


を見てきた。これのトレイラーが、ゴジラの正体を見せずにゴジラの恐怖を伝えるというもので、とても面白そうだったので、これは是非、と思ったわけだ。本編でもゴジラ(とその敵となる新怪獣ムートー)はなかなか姿を見せない。見せたと思ったら、車の中から、テレビの画面の向こうに、等々、もどかしいしかたでしか見えない、といった視点の切り替えがある。比較的視界が広く確保できるときでも、怪獣たちがビルの影に隠れたり、上空に飛んでいったり、海に潜ったりするから、もどかしくてしかたない。それがすごくいいのだ。恐怖はいや増す。

ぼくはあまり映画(や小説)に比喩的な意味を読み取るのは好きではない。ゴジラが水爆からできたという設定なのは誰もが知る前提であって、そのことにそれ以上の意味を見出したくはない。が、この映画はそんなぼくの矜恃などあざ笑うかのように、あからさまに3.11以後を強く意識させる設定だ。

日本のジャンジラという架空の地のスリーマイル式のような溶鉱炉を持つ原発が倒壊。そこは退避地域とされるが、その事故で妻(ジュリエット・ビノシュ)を失った科学者ジョー(ブライアン・クランストン)は、15年もその事故原因を探り、実はもう放射線は漏れていないその地域がモナーク計画という国を超えた秘密のプロジェクトに利用されていることを突き止める。モナーク計画で指揮を執る科学者が芹沢猪四郎(渡辺謙)。実はゴジラではなく、原発から栄養を摂る新怪獣ムートーの研究をしているのだった。

このジャンジラの設定とか、ゴジラが最初に現れるときに起こす大波(津波だ、これは)とか、この想像力は明らかに福島第一以後のものだ。これをこのタイミングでハリウッドが作った(ハリウッドだからこそ作りえた)ことに、ぼくらは嫉妬し、怒り、悲しまなければならないのだろうな。

でもまあ、そんなことを考えなくても、繰り返すが、視界を制限して迫り来る怪獣たちの恐怖を表現する見せ方は、ともかく面白いのだな。


(写真はイメージ)

2014年7月30日水曜日

戦後の思考/記憶(3) カゲロウの島

たとえば島尾敏雄「島の果て」(『出発は遂に訪れず』新潮文庫、所収)を読んでみよう。自身の加計呂麻島駐屯体験を、戦後すぐ書き、昭和21年1月に発表した短編だ。加計呂麻島(かけろまじま)を「カゲロウ島」と言い換える島尾の言語感覚にまず驚かされる。朔中尉という若い部隊の頭目が、命を賭けた作戦の遂行が間近に迫るころ、駐屯地の近くの集落に住む不思議な少女に魅せられ、夜な夜な彼女のもとに通うという話。

島尾は加計呂麻島の呑ノ浦という浜から、震洋艇という、機雷を結びつけた小さなボートで敵艦に激突するという任務を帯びて、その地にいた。海版神風特攻隊だ。もうそれだけで気がおかしくなりそうな、およそ近代国家の装いをまとった国が、こんなことを考えるなんて、と唖然とするしかない話だ。

先の戦争におけるこの国の狂気は今は措いておこう。死と隣り合わせの性への耽溺(あからさまに書かれてはいないが)というテーマも、まあいい。ひとつ下の階級の部下、隼人少尉から突き上げ、島の風土が朔中尉に吹き込む不気味な感覚などが絶妙(あくまでも名指しされない震洋艇やそれを使っての任務と共振し、不気味さは増幅する)で、さすがは島尾敏雄と唸らされる。それもまあいい。ぼくが今回確認したいのは、つぎのような一節だ。

 小城は急いで棒飴を風呂敷に包むと、はまべに下りて行って小舟を用意しました。中尉は黙って黒ぐろと小舟に乗り移ると、小城は櫂で急がしく漕ぎはじめました。櫂の音は仕事を監督していた隼人少尉の耳に入りました。(14-15)

この時に会いに行った少女ヨチの言葉がきっかけで、中尉はトエと会い、のめり込んでいく。トエは後の島尾の妻ミホをモデルとしているだろう。ソクーロフが描いた島尾とミホの逢い引き。中尉はトエのところには、毎晩、陸地を徒歩でいくようになる。峠をひとつ越えたところにその集落があるのだ。けれども、この短編のドラマを形成するのは、次のような距離感というか、移動・交通経路・手段の存在だ。

 まだショハーテに朔隊の人たちが駐屯して来ない前には、トエの部落の人たちは潮のひいたころ合を見はからって磯伝いに岬の鼻を廻ってショハーテに行くこともありました。そしてショハーテ寄りのところに塩を焼く小屋が建っていたのです。(34)


最後の文章にある「塩を焼く小屋」は、確か今もまだあってと思うけれども、ともかく、こういった、陸路、船、浜伝い、という3つのルートが存在した。それが戦前から戦中、戦後のある時代まで続く現実だったろう。小説では、潮目を見誤ったためにトエが危機に陥ったりする。そんな危険を顧みず、なおもこのルートで会いに来るトエが描かれる。それというのも、おそらくは、陸路を取れば、必ず通過しなければならないガジュマルの木の根元に、「ケンムン」がいると怖がっているからだ。軍の見張り番がいて、見つかるからだ。中尉がこのルートを逆にたどってトエに会いに行くと、見張りの番から部隊の他の者たちに話が漏れ、彼は頭目として地位を危うくする。ガジュマルの木の根元では、いつも人間の声を持ったカエルの鳴き声を聞く。小説の物語を可能にする要素でありながら、ある一時期、ある地域の人にはリアルなことこの上なかった自然。自然に対する人間の働きかけ。

2014年7月16日水曜日

思い立って観てきた


自伝、というのかな? ホドロフスキーのような自意識をもって父と子、母と子の関係を描く作家(ましてや自分も息子たちも出演する映画作家)にとってはすべてが自伝のように思えるのだが、ともかく、今回は本人の生まれ育ったチリ北部の炭鉱町トコピージャにロケーションしており、イバニェスの時代を背景にしていることもあり、自伝の名に恥じない。

で、まとめてしまえばよくありそうな父と子の関係を扱った少年アレハンドロ・ホドロフスキー(イェレミア・ハースコビッツ)と父ハイメ・ホドロフスキー(ブロンティス・ホドロフスキー)の話が、なぜこんなに面白いんだろう? 

まずはロケ地トコピージャの、典型的なコロニアル都市風の色使いが、それだけで映画のセットのように見え、そこに〈理想〉という名の映画館(シネ・イデアル)があったりするのだから引き込まれるからだ。子供の万能感、世界との一体感を表現するのに、父につらく当たられたアレハンドロが「怒れ、猛り狂え」などと言いながら海に石を投げると、高波が襲来、鰯が大量に浜に打ち上げられ、カモメが群れをなして飛来する、なんてシークエンスをもってするからだ。母親サラ(パメラ・フローレス)が、ただでさえオペラ歌手のような風貌なのに、すべてのセリフを歌で表現して、本当にひとりオペラを演じているからだ。不況に喘ぎ、ファッショ的独裁制を招く直前の空気を商店の前に貼られた "Cerrado por quiebra" (倒産により閉店)の貼り紙だけでなく、怪我をして手足をなくし、職も追われた鉱山労働者たちの一団を登場させるからだ(『サンタ・サングレ』の蒙古症の子供たちの行進を思い出さない者がいるだろうか)。愛馬を慈しむ独裁者カルロス・イバニェス(バスティアン・ボーデンホーファー)が恍惚の表情をしているからだ。

……あと何があったっけ? ともかく、ひとつひとつのシーンが噓っぽくて、その嘘っぽさが逆にリアルで面白いのだ。


ところで、パンフレットにはホドロフスキーが原作者となったコミックスや自伝の翻訳が、フィルモグラフィーに並んで紹介されていたのだが、それらの版元は書かれていたけれども、翻訳者の情報はなかった。職業柄、思わざるをえないのだが、ちゃんと載せて欲しいな。

2014年7月11日金曜日

Donde hay amor hay dolor (愛あるところに痛みあり)

ちょっと前にいただいていたのだった。『中央評論』No.287。『アマディス・デ・ガウラ』福井千春訳の第二回が掲載されている。第一章、アマディスが生まれるところだ。訳あって母の許を離れることになる。貴種流離譚の典型だ。ワクワクの展開。

都甲幸治『狂喜の読み屋』(共和国、2014)もご恵贈いただいた。都甲さんがここ数年いくつかの媒体に書いてきた書評を中心とする文章をまとめたもの。『野生の探偵たち』の書評も、そう言えば、都甲さんが『読売新聞』に書いてくださったのだった。

こうした媒体のみならず、「必修基礎演習ガイドブック」なんて早稲田の教科書に載せたソンタグ『隠喩としての病』を薦める文章なども収められているのだから、都甲さんもちゃんと大学の仕事もしているのね、とわかるのであった。

ジョン・タトゥーロ『ジゴロ・イン・ニューヨーク』(アメリカ合衆国、2013)は、あのジョン・タトゥーロが(『天井桟敷のみだらな人々』以来か?)、ウディ・アレンを配して撮ったウディ風の都会派コメディ(というのか、こういうの?)だ。ちょっとしたきっかけでマレー(アレン)がフィオラヴァンテ(タトゥーロ)をジゴロとして手配することになり、軌道に乗るが、客として導いたさる高名なラビの未亡人アヴィガル(ヴァネッサ・パラディ)との間に恋が芽生えてしまう、という話。

「ウディ風」と書いたけれども、ウディ・アレンはこうは撮らないだろう、と思える箇所もいくつかあって、例えば、ジゴロとして最初の顧客パーカー(シャロン・ストーン)の家に出向いたときの、リヴィングを俯瞰するショットとか、そのガールフレンドのセリマ(ソフィア・ベルガラ)との顔合わせでダンスをするところとか、……こうした場所はクエンティン・タランティーノやコーエン兄弟、スパイク・リーら、タトゥーロを俳優として好んで起用したシネアストらから学んだところか? 


ニューヨークの多言語状況やユダヤ人社会に触れ、ペダンティックな引用も散りばめ、ウディ・アレン以上にウディ風なところもあって、それもまた面白い。初対面のヴァネッサ・パラディに対し、セファルディ(スペインなどに住むディアスポラ・ユダヤ人)だとのウディの噓に合わせ、タトゥーロは "Donde hay amor hay dolor"と言ってみせる。パラディは「ラディーノ語?」と確認。そうだ、と応えたものだから、彼女は「本物だ」と返す。ぼくはラディーノ語は知らないので、それがそうではないと言い切れないのだが、ぼくにはこのセリフは上に書いたスペイン語に聞こえた。笑うべき箇所なのだかそうでないのだか……

2014年7月6日日曜日

戦後の思考/記憶(2) ——前近代の残存

木村榮一が著書『謎解きガルシア=マルケス』(新潮選書、2014)ブニュエルの回想録(『映画わが自由の幻想』)の、第一次世界大戦ころまでスペインの田舎には中世が根強く残っていたと書いた箇所を引き、それをスペインおよび旧スペイン植民地のラテンアメリカ諸国特有の特徴だと敷衍している。

うーむ。ガルシア=マルケス論という文脈を考えれば、そこに目くじら立てるほどのことはないが、実際には、中世(少なくとも前近代、と呼んでおこうか)が残存していたのは、世界中どこでも事情は同じではないのかな、と疑問に思う。第一次世界大戦はドラスティックに世界を変えた。そこから緩慢な20世紀の進行が始まった。18世紀の産業革命、19世紀の都市化というが、それらは都市の景色と生活習慣を変えたのであって、田舎町はそんなに変わらないだろう。モダニズムとは田舎から都会にやって来ることによって数百年の時をまたいでしまった者の感じる眩暈の謂いにほかならない。「モダン」が騒がれていたころまでは、それに対抗するプレモダンがあったのだ。それが田舎なのだ。たぶん。そのモダンの感覚が、第一次世界大戦後、緩慢に消されていった。

この写真はぼくの育った鹿児島県大島郡笠利町(当時)大字屋仁の集落の前の海だ(ぼくのPCのデスクトップにもなっている)。裏の蒲生山から2010年ころに撮った写真だ。写真右手、入り江の奥にその集落はある。この海に渡されたコンクリートの護岸、これが珊瑚礁を損なうものであることは言うまでもないが、文化の面では、これは少なくとも3つの習慣を駆逐するものだった。ぼくはあまり頻繁に帰省しないので、これがいつごろできたのかは知らないが、90年代と推測される。言っておくが、1990年代だ。ぼくがこの海で泳いでいたころには、こんなものはなかったのだ。

さて、この護岸だかなんだかが壊したものは、徒歩による歩行と船による移動、そして12世紀からあったとされるある施設だ。詰まるところ、前近代を破壊したのだ。それが、1990年代後半のことのはずなのだ。

奄美は日本本土がそうであるように、山がちな島に、海岸沿いのわずかばかり平坦になった場所に集落が点在している。ぼくたちが子供のころまで、各集落の前には結構な数の船(はしけ程度のものだ。スプネと言ったように思う)が繋がれていた。近代化のわずかな名残は、引き潮のとき以外は海に入り込む位置まで達するコンクリートのスロープであり、そこにレールのようなものが敷かれていた。もう少し大きな船用なのだと思う。ともかく、浜に繋がれた船で人は、ちょっと沖に出て魚を釣った。以前は、それは移動の手段でもあった。

船で移動したのだ。戦後すぐまで、人々は。島にバスが導入されるのは岩崎バスが復帰直前の53年12月、奄美交通は54年。ぼくは子供のころはバスを利用していたのだが、戦後すぐの島の人々は歩いたのだ。多くは裸足で。そうでなければ船に乗っていたのだ。

この写真の向こうに見えている佐仁という集落から名瀬に向かう航路があったのだと、母は後に述懐していた。我々の集落の沖でも泊まったので、てんまと呼ばれるはしけに乗ってその船まで行き、それで名瀬に渡ったのだと。冬などは寒かった、と、もう80になろうとするころに母は、10代の日々を振り返って凍えるような仕草をした。

乗り合いの船でなくとも、船を浜に繋留して持っている者は、それで移動した。そうした時代の名残はいまだに、島の南部、瀬戸内町に行けば確認できると思う。はしけにモーターをつけただけの水上タクシーが向かいの加計呂麻島やその先の請島の間を行ったり来たりしている。

いつの間にか写真の施設ができ、浜には船が見当たらなくなった。

船に乗って名瀬に行っていた10代の母は、船に乗らないときには歩いて行ったのだ。そして歩くときは、もちろん、裸足だった。道など舗装されていない。ぼくたちの集落から名瀬までの道が完全に舗装されたのは、やっとぼくが中学のときだったからだ。前に書いたことだが、大宅壮一は復帰の翌年、つまり1954年、奄美を訪れ、名瀬以外の田舎での人々の暮らしが「土人のようである」と書いた。裸足に、ほとんど裸だと。復帰の10年後に生まれたぼくは弱っちいのでそんなことはなかったが、友人たちは本気になるとき(例えば運動会の徒競走で)、裸足になったものだ。


さて、この施設が壊した12世紀からのある施設、というものについては、また別の機会に書こう。

2014年7月5日土曜日

戦後の思考/記憶(1)

大江健三郎の著書のタイトルに倣って言えば、「核時代の想像力」で教養形成したぼくらは、その後、90年代に柄谷行人が「戦前の思考」(やはり著書のタイトル)と言ったことにおののいたものだ。で、ちょっと前に、ある劇を観てぼくは今では人は戦時中の想像力を生きているのじゃないかと書いたことがあった。岩上安身が伝えるように、一部の官僚たちが戦争はやむをえないと見なしているのなら、想像力は時代に対応する。もちろん、戦争など反対だし、そんな動きを容認する気もないのだが、一方で、ぼくは時代の少しだけ先を行きたい。もうすぐ戦争が始まるのなら、先取りして戦後を考えようじゃないか。

戦後を考えると言ったって、ぼくには未来予知はできないし、する気もないので、前回の戦後について覚えていることを整理しておこうというわけだ。「覚えていること」と言っても、ぼくは戦後18年経ってから(今にしてみれば、そんなに時間は経っていない)生まれた。当然、直接の記憶はない。でもぼくは覚えているのだ。人間の記憶とはそうしたものだからだ。でもその記憶は曖昧かもしれない。人間の記憶とはそうしたものだからだ。

ぼくが生まれたのは鹿児島県名瀬市。現・奄美市。育ったのは同大島郡笠利町。現・奄美市。終戦時、ぼくの父の家はまだ三方村という行政区分で、名瀬ではなかったけれども、ともかく、名瀬近郊だった。名瀬の街も空襲に遭った。1945年4月のことで、測候所などはそれでやられたので、後に郊外に移転。その後さらに郊外に移っている。

母は後年、B-29だかグラマンだかの爆撃機を見たと語っていたので、名瀬の爆撃に行くそれのことなのだろう。沖縄戦の激しさは噂に聞いていたし、名瀬は爆撃されるしで、だいぶ切迫感はあったかもしれない。母の家の近くにも防空壕があった。いくつあったかは知らないが、少なくともそのひとつを、子供のころのぼくらは目にしていた。集落の裏にある蒲生山と呼ばれる山に登る途中にそれはあった。

さて、終戦後、1946年2月2日、日本の領土に関する覚え書き、いわゆる2・2宣言というやつで、北緯30度以南は日本と見なさないことにするとされた(「北緯三十度線/それは空間にはない/民族の心臓をつらぬく内在線だ/致命線だ 屈辱線だ」と詩人・泉芳朗は詠んだのだった)。種子島・屋久島までは日本、そこから南は南西諸島軍政官区(後に琉球政府)とされた。サンフランシスコ講和条約の発効まで、確かに、日本には主権は認められなかったのだが、主権のあるなしとは別個に、ここは日本ではないとされたのだ。分割統治されたのだ。

戦争は1945年8月15日で終わり、その日から何もかもが一新したのではない。引き揚げ者の問題があった。引き揚げには時間がかかった。46年2月2日以降引き揚げて内地に戻った軍閥や民間人のうち、そんなわけで、奄美・沖縄・トカラ列島に家を持つ者は途方に暮れた。日本に戻ってきたのに、日本でない場所に出なければならないので、また面倒な手続きが必要になったのだ。3月18日には奄美・沖縄への引き揚げ輸送は停止される。

そこで起きたのが宝栄丸の事故。8月3日、宇検村出身の二人が競売にかけられた木造機帆船〈宝栄丸〉を二束三文で買い、故郷に帰りたがっている同胞たちを乗せ鹿児島港を出港した。途中、指宿と山川にも寄ってさらに人を積み、パンパンになってゆっくりと東シナ海を南下した。宝島を過ぎたら、ちょっと左に舵を切れば奄美大島に着く。が、そんな分岐点にさしかかったころに船が不調になり、修理のために島の沖に停泊することにした(港などというものは整備されていないのだ。はしけでないと近寄れない)。この機を利用して、一部ははしけに乗って島に渡り、物資の調達を行った。調達班が雨をやり過ごすために鍾乳洞で雨宿りしていると、宝栄丸はふらふらと沖に流れ去ってしまった。錨が切れたのだ。

船は黒潮と風に乗って北上、翌日、中之島の港に到達。修理もまだ終えていなかったので、乗客全員を下船させようとしたところ、大波にあおられて転覆、100人ばかりは助かったが、50人ばかりが死ぬか行方不明になるかした。

宝島に残された者たちの一部は手漕ぎで奄美に渡ることを決意、手作りのいかだで南に向かった。無事、大和村にたどり着いた。

月末には大島を出た救助船十島丸が宝島と中之島にいた遭難者を救出、鹿児島に送り届けた。鹿児島に、だ。

宝栄丸のことは佐竹京子編著『軍政下奄美の密航・密貿易』(南方新社、2003)に詳しい。


記憶が蘇ったら、第2回がある……かも? 

2014年7月1日火曜日

運命を告げる鳥を待ちわびる

マルティン・フィエロが官憲に追い詰められ、万事休すとなったとき、クルスという警官が助けに入った。この男を殺すことだけはあってはならないと。

その話をボルヘスは「タデオ・イシドロ・クルスの伝記」という短編に展開した。ボルヘスの解釈によれば、「どれほど長く入り組んだものであっても、あらゆる運命は実のところたった一瞬から成っている。つまり、人が自分が誰なのかを永遠に知る瞬間のことである」(木村榮一訳)。木村榮一が「サケビ鳥」と訳したチャハーが泣いた瞬間、クルスは自分がフィエロであると知り、フィエロの側につく。

アウレリャノ・ブエンディア大佐が銃殺されようとする瞬間、銃殺隊を率いていたロケ・カルニセロは、アウレリャノを殺してはならないと気づき、連れたってさらなる反乱に旅立つ。

クルスもカルニセロも寝返ったのではない。彼らは運命として正しい側についたのだ。裏切りではなく、自覚だ。


誰かの耳元で運命を告げる鳥チャハーが泣くこと、¡Basta ya! と叫ぶべきだと気づくこと。明日の準備をしながら今日、そんなことを待望している。

2014年6月28日土曜日

魔術的リアリズムの脱領土化、あるいは視点の問題

昨日のこと。いただいたのだ。『ユリイカ 特集ガルシア=マルケス――「百年の孤独」は語りつづける』2014年7月号。ぼくはここに「文字の都市の住人たち――ガブリエル・ガルシア=マルケスに対するアンヘル・ラマの共感と差異の感情」という一文を寄せている。

全体的に言って、ラテンアメリカをフィールドとする書き手たちよりも、そうでない人たちが「魔術的リアリズム」/「マジック・リアリズム」/「マジカル・リアリズム」という用語に正対している構図が見える。「マジック・リアリズム」というタームの脱領土化(河野至恩が奇しくもこの可能性を指摘していた)だ。ラテンアメリカニストの中には「あの忌まわしい用語〈魔術的リアリズム〉」と呼んだ者すらいた。

あ、それ、つまり、ぼくですけど。

かようにぼくは「マジック・リアリズム」という語を嫌っている。少なくともそれでガルシア=マルケスの作品を説明することを。そして、かように「マジック・リアリズム」の語は脱領土化され、汎用されている。ぼくはその日、「魔術的リアリズム」の名で形容される映画を観に行ったのだった。

前にも書いたかもしれないが、たとえば、ウディ・アレンの映画すら、幽霊が出てくるというので、「マジック・リアリズ」が云々される。ウディを追ったドキュメンタリー、バーバラ・コップル『ワイルドマン・ブルース』のインタビューでこの語が発された。しかし、字幕はそれをきちんと捉えていなかった。それには複雑な思いを抱いたものだ。こんな語、ウディの映画に使わないでくれ、という思いと、字幕製作者よ、少しは勉強してくれ、という思い。

それが、今、もはや脱領土化された「マジック・リアリズム」ではなく、「圧倒的な映像美でラテン・アメリカ特有の魔術的リアリズムをスクリーンに刻んでいく」映画が紹介されているというわけだ。

やれやれ。


ある田舎の別荘らしいところで夏を過ごす夫婦と幼い2人の子供。別荘を引きあげる段になって忘れ物を取りに帰った夫が、盗みに入っていた知り合いの男「7」(Sieteと発音されていたのでこれでいいと思う。字幕は「セブン」だったけど)を見つけ、難詰したところ、返り討ちに遭い、ピストルで撃たれる。翌夏、家族がまた戻って来たので、「7」が子供たちに父親のことを訊ねたところ、死んだと告げられる。後悔した彼は自ら命を絶つ。

たぶん、ストーリーはこんな感じだ。たぶん、というのは、断片的に語られ、かつ成長した二人の子供のシーンや、いつのことだかわからない、ヨーロッパ(フランス語圏)での乱交シーンなどが挿入されるので、攪乱されるのだ(あるいはこの乱交から生まれたのが子供たちだということなのか?)。

最後の「7」の自殺シーンは、なるほど、虚を突かれる。あらかじめパンフレットで読んでいたのだが、それでも、びっくりだ。これが「魔術的リアリズム」なのか? 

室内のシーンでは目立たないのだが、少なくとも屋外では焦点が狭められ、周囲がぼける映像を採用している。時々、焦点はさらに狭くなるようだ。映像に深みを出すためというよりは、フレームの周辺部を不確かにするために採用されているように、ぼくには思われる。端へ追いやられた映像は、その存在が疑われるのだ。そしてフレーム外からの音が多用されているので、観客は自分の視界の狭さに不安を募らせることになる。冒頭、ふたつめのシークエンスは幼女ルートゥ(レイガダス自身の娘みたいだ)の視点で犬や牛を追いかけるというものなので、焦点の狭さが子供の寄る辺無さと相乗効果を得る。子供のように周囲がはっきりと見えていない者が、常にその視界の端や外に何かの存在を感じて怯えている、そんな気持のまま見る2時間弱の物語だ。

フアンとナタリア(というのが夫婦の名)のある夜の会話では、フアンがフレームの外に出たと思ったら、とたんに彼の語気が変わり、夫婦げんかが始まる。夫婦の間に何らかのトラブルがあったことを示唆するシークエンスだが、果たして突然人格を変えたかのようなフアンは、本当にフアンなのか? あれは、物語冒頭で誰かの家に入り込んできた(その直前、ルートゥの遊んでいる空の端に何やらぼかされた視界の端に、不思議な光がきらめいたのをぼくらは見逃さない)山羊の頭と人間の身体、悪魔のような尻尾を持った生き物か何かとでも話しているのではないのか? と緊張が走るのだ。


「魔術的リアリズム」などではない。フレーミングという、映画にとっては最古の問題のひとつだ。焦点という、写真にとっては最古の問題だ。視点の問題なのだ。『ユリイカ』の記事に書いたように、小町娘のレメディオスは、目撃者の誰もがシーツで視界を遮られているときに空に舞い上がるのだ。

2014年6月22日日曜日

ひとつのありうべき回答

以前、ボラーニョ『2666』の刊行を記念して、「『2666』ナイト」という催しがあった。その第1回目、訳者3人のトークショーのときだっただろうか? 質疑応答の際に、第4部「犯罪の部」で列挙されるレイプ殺人事件の被害者がことごとく肛門にも挿入された痕があることが記されるのはなぜか、との質問が出た。メキシコではアナルセックスが普通なのか、と。第4部の翻訳を担当した内田兆史さんは苦笑い。よくわからないなあ、と応えていたように記憶する。

いささかひっかかるものがあった。頭の片隅に何かがあった。

ジェイムズ・ウッダル『ボルヘス伝』を読んでいて思い出した。V・S・ナイポールがこんなことを書いていたのだった。

 手軽に買える正常な性行為は〈男らしい男〉にとってまるきり重要ではない。女の征服は女の尻をものにしたときにはじめて完全なものとなる。女はそれを拒否することを許されており、売春宿のゲームはそれにかかわっている。愛(ルビ:アモール)の囁きで始まる情熱抜きのラテン風アバンチュールである。「あの女の尻をものにしたぜ(ルビ:ラ・トゥベ・エン・エル・クロ)」、それが〈男らしい男〉の勝利を仲間に吹聴し、あるいは遺棄にけりをつけるやり方である。現代の性科学者たちは釜を掘ることに全般的な赦免を与えている。しかし女の尻を攻めることはアルゼンチンや他のラテン諸国において特に重大である。教会はそれを重罪とみなし、売春婦たちはそれを恐ろしいことと考えている。娼婦たちのいやがることを、そして一種の性的な黒ミサであると自ら心得ていることを女に強制することによって、主としてスペインやイタリアの小農の血を引くアルゼンチンの〈男らしい男〉は、意識的に自分の犠牲者を辱めている。(「エバ・ペロンの帰還」『エバ・ペロンの帰還』〔工藤昭雄訳、1982〕、175-6ページ)

うーむ。本当かなあ? でもまあ、くだんの質問にはこの一節を教えて差し上げたかったな。

ちなみに、教会は肛門性交を「重罪とみな」すと書いているけれども、日本には鶏姦罪というのがあったのだ。鶏姦というのは、肛門姦のこと。アナルセックスは同意の上でも罪だった。ただし、この鶏姦は男性同性愛行為の言い換えだけれども。


(写真は、あくまでも、イメージ)

2014年6月20日金曜日

金持ちだけが離婚できる

貧しく生まれ育った。よく冗談に日本で二番目に貧しい家だったと言う。一番ではないところが現実的だし、それが現実的だと思えるていどに、当時は「一億層中流」の意識が浸透する時期だった。今なら二番目とは言わない。

ともかく、貧しく生まれ育った。借金を背負って生まれてきたと言っていい。そんな人間が借金を清算するのは難しい。ぼくがもう少し堅実な人間ならどうにかなったかもしれないが、詳しくは語らないものの、個人的な事情と、家庭の事情とで、ぼくには難しい。おそらくぼくは、老後は野垂れ死にするだろう。

イヴァーノ・デ・マッテオ『幸せのバランス』(イタリア=フランス、2012)は原題をGli equilibristi という。軽業師(複数形)などの意味だが、転じて、世渡り上手。が、ここに出てくるのはむしろ、世渡り下手な男(と女)。あやうくバランス(equilibrio)を保っている。いや、保てないでいる。経済的な問題なので、自転車操業、と言えばしっくりくるかもしれない。

自身の浮気がもとで別居することになり、家を出たジュリオ(ヴァレリオ・マスタンドレア)が、公務員としての収入ではその生活レベルを保てないということに気づくのが遅れ、借金したりしているうちに、仕事以外のアルバイトをしても生活が立ち行かなくなり、ついには車上生活へと身をやつす話。

車上生活なのだ。車はあるのだ。その車のローンが、出ていったアパートのローンや長男の歯列矯正、長女のバルセロナ旅行などと重なって、二重生活を圧迫していたわけで、車など手放してしまえば少しは楽になったかもしれないのだ。その辺のバランスが、生活のバランスを崩させるところ。

もちろん、国家が(ジュリオの場合は市役所職員だからローマ市が)転覆でもしなければ、ひとりの公務員がここまで急激に落ちることはない。だろう。しかし、10年、20年のスパンで考えれば、ましてや国家がみずからを転覆させる道に進んでいる国々(もちろん、ぼくらもその一員)では、あり得ない話ではない。

ヴィットリオ・デ・シーカの『ウンベルトD』とよく比較されたという。ぼくなど、この間までガルシア=マルケスについて考えていたので、『大佐に手紙は来ない』を思い出していた。あてにした年金は届かず、生活が圧迫されていく……

……そして何より、自分の老後を考え、身につまされた。


別居の発端となる問題の提示のしかたが良かった。子役二人の演技も、それぞれ一箇所ずつ、唸る。長女役のロザベル・ラウレンティ・セラーズはまだ「子役」と呼べるのか、不安だが。このエントリーの表題は、映画内のセリフから。まったくそのとおりだと思う。ぼくらは多くがプレカリアート予備軍なのだ。