2010年11月26日金曜日

そもそも本を読まない話

辞書は本当は読むときでなく書くときに使うという事実も重要だが、どうしても辞書を使う/使わない話だと本を読む話になってしまう。

でも本当の本当は本を読むという行為そのものが書くときに行われるものでもある。数多ある読書の指南書などを読んでいるとそうなのだと確信される。本を読む話だけでは一冊の本が成り立たないということなのか、たいていのものがインプットと同時にアウトプットを勧めるものだから。そんなものを書く人は、たいていはまあ売れっ子の作家なわけで、彼らのようにアウトプットする必要のある人がどれだけいるのかと考えると、いったい彼らのそうしたマニュアルは誰のために書かれているんだろうと疑問に思ってしまう。『15分あれば喫茶店に入りなさい』(斎藤孝の本のタイトルだ。ぼくは立ち読みだけした)、そしてそこで勉強とアウトプットにいそしみなさい、と言われても、ぼくらはそこまで忙しいのか?

さて、ともかく、本は書くときに読むものである。まず目次を確認しろ、どこに何が書いてあるかあたりをつけてから読め、などというインストラクションはそのことを勧めている。そしてこんなインストラクションをしない読書指南書は珍しい。つまり、本というのは一部だけ読めばいいということだ。逆にいうと、本は全部読まなくても読んだことになる。これは実にぼくたちの心を安らがせる命題だ。

本は全部読まなくてもいい。そりゃそうだ。たとえばスペイン史の専門家が新しく出た『スペイン史概説』なんて本を一字一句読んでいたら、無駄だ。新機軸だとか新事実だとかを確認すればいい。(少なくとも一部のひとにとって)全部読まなくてもいい本というのが、かくして、確かに存在する。たとえば月に百冊読んでますよと豪語する人は、どうやら、90冊くらい(という数字に根拠はないが)はそんなものを読んでいるらしいのだな。本を元手にアウトプットしなければならない人は多かれ少なかれ、そういう、全部読まなくてもいい本をたくさん読んでいるはずだ。

これを敷衍すると、一部どころかまったく読んでいなくてもいい本があるということになる……のか? 少なくとも、読んでいない本について語ることの効用を説く人もいる。加藤周一などもその『読書論』でそんなことを書いていた。そしてまったく読んだことのない架空の本の話で盛り上がるインテリのパーティー参加者の話などを書いてた。もちろん、そんな書物談義の最たるものはボルヘスの「トゥレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」なわけだが。

ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』大浦康介訳(筑摩書房、2008)なんていう本があって、ここでバイヤールはかくして、ななめ読みする本、内容を知っている本、等々に分類して見せて、読んでいない本について話すことを指南する構えを見せるふりをして、実は読んでいない本について語る人の話を扱った小説やら映画のシーン、その他の本の一部などを分析し、ほらね、本なんて読んでいなくても本質的なことが語れるでしょう、と目配せする。なんだか小憎らしい本だ。

ぼくらは読んでいなくてもある本について本質的な疑義を突きつけ、実り多い議論を誘発することができる(こともある)。一方で、読んでいない本について言及して、とんでもない事実誤認を犯してしまうことがある。「『ポールとヴィルジニー』も結局は『大いなる野蛮人』を扱ったさくひんだ」とかだ。これをしてこの発話の人物を愚か者と断じるのは少しばかり厳しすぎるか? でもセンスはないと思ってしまう。そして、隅々まで読んだ本に関して、とんでもない誤認を犯し、的外れなコメントをしてしまう者もいる。これはまあ愚か者と断じてもいいか? ……うーん、でもな、ぼくらは目の前に展開されているものが何なのか本当には理解できな存在でもあるものな……