2013年4月29日月曜日

ゴールデンウィークの正しい過ごし方


連休でFB上には友人や学生、卒業生たちの楽しそうな写真が満載だ。中には「ゴールデンウィークの正しい過ごし方」というミニアルバムを作って、たぶん、房総あたりへの旅行の写真を載せている者もいた。

悔し紛れに、ぼくなりの「ゴールデンウィークの正しい過ごし方」の写真を。

ま、つまり、仕事しているということだ。

行楽に使う金を削減するのが「縮小経済を生きる」ことだというのではない。この机の布陣が、だいぶすっきりとしたなあ、という話。

かつて、机にいちばん近い本棚には、ずらりと辞事典類を並べたものだが、今では最少で済ませている。研究室にはもっとあるけれども、ともかく、最少で済ませている。いくつかの辞書はiPad miniの中のアプリとして収まっている。アプリではないけれども、スペイン語の最もオーソドックスな定義をしているスペイン王立アカデミーの辞書は、ネット検索するためのアプリが、無料で配布されており、やはりそれがiPad miniに収まっている。紙の辞書では、現在、もっぱら使うのは、机上に見えるサラマンカの辞書だけだ。

インターネット上の検索といえば「ジャパンナレッジ」を重宝している。『日本国語大辞典』や『ランダムハウス英和辞典』、『ニッポニカ』の百科事典など、かなり多くの辞事典類がクロス検索できるのだ。もちろん、個別の検索も。そして日本古典文学全集とか文庫クセジュの多くのタイトルなどの全文すら読める。

有料なのだが、最近、使用料を少し多めに払うだけで集英社の『世界文学大事典』も閲覧可能になることを知った。この事典はこれまで、他のネットワーク経由で、別個に会費を払って使っていた。計算したら、ジャパンナレッジに追加で払ってもこの別個の会費よりも安上がりになることが判明。すぐさま解約し、ジャパンナレッジに統合することに決めた。

引っ越して以来、インターネットへの接続はemobileのポケットWiFiで行っている。新たなプロバイダと契約せず、それまで持ってはいてもほとんど使わずにいたこれを、せっかくだから使ってみようと思ったのだ。不都合を感じるようだったらJ:COMにでも頼めばいい(回線は来ているので)と思った次第。今のところ、特に不自由は感じない。

さ、仕事仕事。貧乏暇なし、って感じだ。

2013年4月28日日曜日

縮小経済を生きる


主権回復の日など、何の悪い冗談かと思ったら、3月12日に閣議決定されたのだとか。引っ越しにかまけてチェックできていなかった。

主権回復の日は屈辱の日だ、と沖縄の人々は言うという。ぼくだって、この日から激しくなった本土復帰運動の話を、その只中にあった母の世代の者から語り聞かされた世代だ。その「主権」とやらの「回復」のために何を切り捨てたかに無自覚な鈍磨した神経の持ち主の主権意識には常に疑念が呈されなければならない。

小選挙区制のマジックによる勝利を圧倒的なポピュラリティと勘違いしてのぼせ上がっている安倍晋三の暴挙の数々を、ダサイだの品がないだのと言って高踏的に構えているだけでは、もうすまされないのだろうと思う。公約を覆してTPP交渉に参加するし、憲法は変えやすくすると意気軒昂だし、そういえば大学教員を年俸制にしろなどという答申をなんとか委員会に出させるし(そんなことより国立大学授業料無償化こそが焦眉の急だろう)、……話はずれるが、いまやグローバル企業となった服屋のCEOが「年収1億か百万か」の時代が来るだろうと、その立場で言ってはならないことをしたり顔で言い、それを大新聞が他の特集との兼ね合いで、あたかも肯定するかのような報道をし、……

もうこの国はだめなのだと思う。「年収1億か百万か」というが、努力すれば全員が1億の年収を得られるわけではない。そんなことをわかりきっている学生たちに、何の道を説けというのか?

ぼくは今のところ、「年収百万」ではない。が、一方で、どう足掻いても「年収1億」には届かない仕事だ、この仕事は。それどころか、最近、生活の規模を縮小させているのだ。「年収今よりマイナス百万(から200万)」の生活を送ろうとしているのだ。

引っ越しや生活の規模縮小に関係する記事に「縮小経済を生きる」というタグをつけてみた。ちょっと意識して生活のことを書いてみようかという意向。実はあまり自身の生活を語るタイプではないのだが、がんばってみようと思うわけだ。

2013年4月27日土曜日

夢見る頃をすぎても


3連休? けっ! 関係ないね。連休明けの30日に〆切りを控えてるんだ。しかも、30日は授業と、その後、食事に行くので、ということは実質、29日が〆切りなんだ。3連休は缶詰の日々だぜ。

で、その前の最後のあがきとして行ってきた。「『2666』ナイト」第1段。役者3人揃い踏み! ……じゃなかった、訳者3人、だ。

おそらく、一番遅く書評を書かなければならないようなので、いろいろとネタを探しに。お三方の好きなところ、読ませどころなどを語っていただいた。第三部「フェイトの部」の文体の変化は意図的であり、アメリカ小説などを意識したのだろうとの野谷さんの解釈や、二度目の読みがこんなに楽しい小説はない、との内田さんの喜びなどが語られた。

鴻巣友季子とのトークのときにも言っていたのだろうか? それとも個人的に会話を交わしたときだったろうか? 野谷さんは訳している最中に夢を見たことを繰り返しておられた。地球の裏側アルゼンチンで、時差のために、それこそ眠れなくなるようなメール連絡を夜中に受け取りつつ仕事をした久野さん、研究関連の書類に「考察」と書くつもりが「絞殺」と変換されてボラーニョにPCを乗っ取られたと話す内田さん、それぞれの事情なども面白く聞いた。

おかげで、ぼくも昨夜は夢を見た。使わないまま残っているわが家の食材を昼食に食べる夢だ。

ぼくはどうやら、かなり飢えているようだ。さ、飯食おう。

2013年4月24日水曜日

鶏飯!


無印良品の店でこんなものをみつけた。

奄美大島風 鶏飯

「風」ってことはつまり、それそのものではないってことだな、と思いながら買ったのだった。

何度も書いたかもしれないけれども、ぼくは具だくさんのスープ好きで、これはご飯にかけるのだからもはやスープとは言えないのだけど、ともかく、好きなのだと。渋谷というか神泉にある土濱笑店などで食した話を、確かに以前書いた。探すのも面倒なのでリンクは貼らないが。

これにアサツキや錦糸卵を加えれば完成と相成るのだが、あいにくどちらも切らしているので、この態勢でいただいた次第。

今年は外語で勤めるようになって以来、初のことだが、水曜日に授業がない。ゆったりの朝であった。

2013年4月21日日曜日

遠い道のり


授業が始まるとあっという間にブログの書き込みが減る。

いや、授業が始まったからばかりでなく、既にリンクを貼って宣伝したりしたが、あるところで連載を持っていたからだ。週に一度何かを書かなければならないというのは、けっこうきついことだわかった。今朝、最終回の原稿を送った。

分量は自由だと言われたが、結局、毎回、5,000字かそれ以上書くことになった。4回分で25,000字も書いただろうか? つまり、400字詰めで60枚ばかり。月刊での連載(と言っても訳と解説なのだが)も含めると70数枚ほども書いたことになるのか、4月は? いや、これからさらにもうひとつ長いのを書かねばならないので、100枚。うーむ……

福田和也に『月100冊読み300枚書く私の方法』とかいう本があって、買った記憶もないのにぼくはそれを持っていたのだが、……これだけやっても、つまり、最盛期の福田のやっと3分の1ということか。授業の原稿やいつまとまるともしれない文章らを含めたとしても、月300枚というのは、遠く及ばないなと思うのであった。重松清の600枚はさらに遠い先だ。

……ま、そこまで求められることもないのだが。

今月文庫化された柴田元幸、高橋源一郎『小説の読み方、書き方、訳し方』(河出文庫)で、高橋源一郎が、何作も何作も読んでいるうちに腑に落ちるようになった、「チャクラが開いた」と言っていた。同じことは書くことについても言えるのだと。高橋の場合、500枚ばかりの小説の3作目くらいを書いたところで書き方がわかるようになったと。

ぼくは「チャクラが開いた」のか? なんだか自覚はないぞ。読むのも書くのもうまくできないぞ。まいったなあ……

2013年4月14日日曜日

色彩の美しい本をつくると、……


この狂想曲はいったいどうしたことだ? 

村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文藝春秋、2013)

『朝日新聞』など発売日の午前0時にすぐに手に入れ、担当者が徹夜で読んで「超速レビュー」などを書いたと思ったら、2日後の今日の読書欄には、もう佐々木敦による書評を掲載していた。けっ、ここは三大紙で唯一『野生の探偵たち』の書評を掲載しなかったところだぜ、と恨み言のひとつも言いたくなるじゃないか。 

ツイッター上でも読んだだの、途中だだの、よかっただの、失敗だだのと、みんながわれ先にと競って書いている。かく言うぼくも、書いている。やれやれ。

何かに似ているなあ? あ、そうだ、ボラーニョの『2666』だ。発売前だかその日のうちだかにアマゾンにレビューが出、みんながこぞって読んだぞ、いま第何部だぞ、などと書いていた、『2666』。

ぼくは先日、そういえば、鈴村和成さんを相手に、村上春樹とボラーニョを並べていろいろと話をしてきたのだった。成り行き上、この『多崎つくる』も読みたくなるじゃないか。ま、そうでなくても、読んでるのだけど。

主人公多崎つくるの友人・灰田文紹の父親が、学生運動に納得の行かないものを感じて大学を休み、放浪するという、『ノルウェイの森』の主人公のような人生を送ったというのだから、これは68年の世代の子供たちを扱ったもの。この世代って、とても窮屈な人間関係を築くと言われた世代だ。そしてそれを反映するかのような設定だ、今回の小説は。

赤松、青海、白根、黒埜と、それぞれ姓に色のつく友人たちと五角形のごとき均衡を保って常に行動を共にしてきた多崎つくるが、ひとりだけ東京の大学に進学して2年目(20歳になる直前だ)に突然、名古屋に残った他の4人から絶交を言い渡される。そのことで傷つき、死ぬことばかり考えていたつくるは、相貌まで変わり、しかし、どうにか危機を乗り越えた。そして念願だった鉄道会社で駅をつくる仕事を得、36歳になっている。そんな彼が結婚を意識したガールフレンドに示唆され、絶交の理由を探り始める、という話だ。

村上春樹は運命的で調和の取れた理想のカップルというのをつくり出してきた。それがある日、離れ離れになってしまうという話。『国境の南、太陽の西』のハジメと島本さんや、それこそ『1Q84』の青豆と天吾だ。今、そうした運命的な関係が2人から5人に増えたことは、一方で村上春樹の新たな転回のようにも見える。ましてやその関係が崩れた原因が探求されるのだ(『ノルウェイの森』では、直子はその原因を知らず、思い悩み、死んだ)。しかしまた一方で、こうした関係を築くのが5人であること、それがささいな理由で壊れることなどは、繰り返すが、登場人物たちの世代を反映しているようでもある。絶交の理由は繊細で難しい。単純にして複雑だ。運命的な関係、と言えば美しいけれども、この5人の友だち同士の関係は、やはり、世代特有の閉塞感を体現しているように思える。

2013年4月10日水曜日

耳をそばだてる


さて、君たちはぼくのブログを読んできたのだから、ピグリアの「短編小説のテーゼ」など訳したりして、それを授業なんかでも使って、短編を読む訓練だ、などと息巻いていたことを知っているだろう。

では、今日のレッスンは、これだ。

旦敬介『旅立つ理由』(岩波書店、2013)

何しろ、敬愛する先輩、旦敬介さんの実にほぼ20年ぶりの短編集だ。旅を扱った旅行短編集だ。こんなきれいな挿し絵つきだ。挿し絵は門内ユキエさんのもの。そりゃあ、読むだろう。

読むだけじゃなく、出版記念イベントが下北沢のB&Bで開かれるとなりゃあ、行くだろう。

イベントで朗読してくれたのが、2作目の短編「初めて見る異国の情景」だ。ぼくもこれはとても印象に残った一編だけに、これが選ばれたときは喜んだな。

ケニアとウガンダに慣れ親しんだ、アフリカ人の「彼女」が、同棲していた外国人(ってのが日本人なのかな? でもそれは今は些細な問題)とザンジバルに旅行に出かけるんだ。アフリカに慣れ親しんで、それを我が物と思っていた「彼女」が、ザンジバルには違和感を感じたというのだ。

 インド洋の沖合三十五キロに浮かぶザンジバル島はタンザニアの一部で、タンザニアはケニアとウガンダの両方に隣接した同じ東アフリカの国で、かつてはこの三国で東アフリカ共同体を形成していたこともあったくらい近しい関係にあり、ことばだって通じるところだったが、たしかにこの島、ザンジバルは、彼女にとって、生まれて初めて見る異国となった。(13)

というのだな。近いはずなのに、異国に感じる。

なぜか?

さて、君たちは上に言ったような理由で、短編小説ってのが常に語らない事実を含むために謎に包まれたプロットをひとつ展開するものだってことを知ってるだろう? この短編ではこれがその「謎」になるわけなんだ。

「彼女」と外国語人の「彼」がとても立派なスワヒリ語を話すらしいタクシー運転手とともにホテルを探して歩き回り、疲れ果てるのだが、どういうわけか、酒が飲めそうなところがない。やっとビールが飲める場所に着いたかと思うと、今度は、酒場らしくない雰囲気が漂っている。で、ビールを頼もうとすると、彼女はなぜか頼めないんだ。そして、ついにはクラブ・ソーダを注文してしまう。

これが謎。なぜ彼女はビールを注文できなかったのか? 

ここで読書の難しさというテーマが加わるのだが、ぼくは最初に読んだときには、そこがザンジバル島であるという事実だけが、その謎の解明の手がかりだと思って読んでいたんだ。そしたら、今日、旦さんの朗読を聞いていたら、ちゃんと書かれていることに気づいたのだな。「彼女は飛行機に乗って、かつてオマーンのスルタンが統治したこの島に、生まれて初めて観光旅行で行くことになったのだった」(13-14)と。

さて、その謎がわかったところで、では、その状況から生まれた緊張を、どうやってやり過ごすか、というのが作品後半の読みどころになるのだが、それを言ってしまっては、君たちは「ネタバレ」だと言って怒るのだろう? だから話さない。自分で読んでくれ。とてもすてきな解決方法が披露されている。

そしてまた、朗読を聞いていると明らかになるのは、語の採用のしかたの妙だな。たとえば笑い声。

「(彼女は)満足げにけろけろと笑った」(15ページ 強調は柳原)
「ふたりの口から同時に、くすっ、と小さな笑いが漏れた」(17 同)
ニヤっ、といたずらな笑みが浮かんだ」(21 同)

わずかなページの間に3つもの異なる笑いとそのオノマトペが紹介されている。

いやあ、やはり音読って、聞いてみるものだ。

イベントって、出てみるものだ。美しいユキエさんから、こんな風にBeijo(スペイン語でいうBesoだな)までいただいたんだから。家宝になるね。

2013年4月3日水曜日

Habla Mendoza


昨日は金英蘭舞踊研究所第10回定期発表会というのを見に行った。

今日は、そして、ついにエドゥアルド・メンドサを迎えて。

40分ばかり自らの作家人生を語っていただき、その後、会場からの質疑を受けつける形で進行した。高雅なる文学への志向性とひどいもの共存のことなどを冗談を交えながら語った。

アルトゥーロ・ペレス=レベルテが『サボルタ事件の真実』を読んで取るべき方向性に気づいたと言ってくれたという逸話など、興味深い話をうかがった。

熱く楽しいひとときであった。

2013年4月1日月曜日

見出された時


なくした付箋はとある本に挟まっていた。

恥ずかしい。

「翻訳ミステリー大賞シンジケート」というサイトで週1回、合計4回の連載が始まった。一週間って意外に短い。水曜日には以前宣伝したメンドサのイベントがあるし、日曜日にはある場所である人とお話しなければならないし、……来週の分、ちゃんと書かなきゃ。

リュック・ベッソン『ロックアウト』(2011)などを課題映像として観て過ごす。