2014年7月30日水曜日

戦後の思考/記憶(3) カゲロウの島

たとえば島尾敏雄「島の果て」(『出発は遂に訪れず』新潮文庫、所収)を読んでみよう。自身の加計呂麻島駐屯体験を、戦後すぐ書き、昭和21年1月に発表した短編だ。加計呂麻島(かけろまじま)を「カゲロウ島」と言い換える島尾の言語感覚にまず驚かされる。朔中尉という若い部隊の頭目が、命を賭けた作戦の遂行が間近に迫るころ、駐屯地の近くの集落に住む不思議な少女に魅せられ、夜な夜な彼女のもとに通うという話。

島尾は加計呂麻島の呑ノ浦という浜から、震洋艇という、機雷を結びつけた小さなボートで敵艦に激突するという任務を帯びて、その地にいた。海版神風特攻隊だ。もうそれだけで気がおかしくなりそうな、およそ近代国家の装いをまとった国が、こんなことを考えるなんて、と唖然とするしかない話だ。

先の戦争におけるこの国の狂気は今は措いておこう。死と隣り合わせの性への耽溺(あからさまに書かれてはいないが)というテーマも、まあいい。ひとつ下の階級の部下、隼人少尉から突き上げ、島の風土が朔中尉に吹き込む不気味な感覚などが絶妙(あくまでも名指しされない震洋艇やそれを使っての任務と共振し、不気味さは増幅する)で、さすがは島尾敏雄と唸らされる。それもまあいい。ぼくが今回確認したいのは、つぎのような一節だ。

 小城は急いで棒飴を風呂敷に包むと、はまべに下りて行って小舟を用意しました。中尉は黙って黒ぐろと小舟に乗り移ると、小城は櫂で急がしく漕ぎはじめました。櫂の音は仕事を監督していた隼人少尉の耳に入りました。(14-15)

この時に会いに行った少女ヨチの言葉がきっかけで、中尉はトエと会い、のめり込んでいく。トエは後の島尾の妻ミホをモデルとしているだろう。ソクーロフが描いた島尾とミホの逢い引き。中尉はトエのところには、毎晩、陸地を徒歩でいくようになる。峠をひとつ越えたところにその集落があるのだ。けれども、この短編のドラマを形成するのは、次のような距離感というか、移動・交通経路・手段の存在だ。

 まだショハーテに朔隊の人たちが駐屯して来ない前には、トエの部落の人たちは潮のひいたころ合を見はからって磯伝いに岬の鼻を廻ってショハーテに行くこともありました。そしてショハーテ寄りのところに塩を焼く小屋が建っていたのです。(34)


最後の文章にある「塩を焼く小屋」は、確か今もまだあってと思うけれども、ともかく、こういった、陸路、船、浜伝い、という3つのルートが存在した。それが戦前から戦中、戦後のある時代まで続く現実だったろう。小説では、潮目を見誤ったためにトエが危機に陥ったりする。そんな危険を顧みず、なおもこのルートで会いに来るトエが描かれる。それというのも、おそらくは、陸路を取れば、必ず通過しなければならないガジュマルの木の根元に、「ケンムン」がいると怖がっているからだ。軍の見張り番がいて、見つかるからだ。中尉がこのルートを逆にたどってトエに会いに行くと、見張りの番から部隊の他の者たちに話が漏れ、彼は頭目として地位を危うくする。ガジュマルの木の根元では、いつも人間の声を持ったカエルの鳴き声を聞く。小説の物語を可能にする要素でありながら、ある一時期、ある地域の人にはリアルなことこの上なかった自然。自然に対する人間の働きかけ。

2014年7月16日水曜日

思い立って観てきた


自伝、というのかな? ホドロフスキーのような自意識をもって父と子、母と子の関係を描く作家(ましてや自分も息子たちも出演する映画作家)にとってはすべてが自伝のように思えるのだが、ともかく、今回は本人の生まれ育ったチリ北部の炭鉱町トコピージャにロケーションしており、イバニェスの時代を背景にしていることもあり、自伝の名に恥じない。

で、まとめてしまえばよくありそうな父と子の関係を扱った少年アレハンドロ・ホドロフスキー(イェレミア・ハースコビッツ)と父ハイメ・ホドロフスキー(ブロンティス・ホドロフスキー)の話が、なぜこんなに面白いんだろう? 

まずはロケ地トコピージャの、典型的なコロニアル都市風の色使いが、それだけで映画のセットのように見え、そこに〈理想〉という名の映画館(シネ・イデアル)があったりするのだから引き込まれるからだ。子供の万能感、世界との一体感を表現するのに、父につらく当たられたアレハンドロが「怒れ、猛り狂え」などと言いながら海に石を投げると、高波が襲来、鰯が大量に浜に打ち上げられ、カモメが群れをなして飛来する、なんてシークエンスをもってするからだ。母親サラ(パメラ・フローレス)が、ただでさえオペラ歌手のような風貌なのに、すべてのセリフを歌で表現して、本当にひとりオペラを演じているからだ。不況に喘ぎ、ファッショ的独裁制を招く直前の空気を商店の前に貼られた "Cerrado por quiebra" (倒産により閉店)の貼り紙だけでなく、怪我をして手足をなくし、職も追われた鉱山労働者たちの一団を登場させるからだ(『サンタ・サングレ』の蒙古症の子供たちの行進を思い出さない者がいるだろうか)。愛馬を慈しむ独裁者カルロス・イバニェス(バスティアン・ボーデンホーファー)が恍惚の表情をしているからだ。

……あと何があったっけ? ともかく、ひとつひとつのシーンが噓っぽくて、その嘘っぽさが逆にリアルで面白いのだ。


ところで、パンフレットにはホドロフスキーが原作者となったコミックスや自伝の翻訳が、フィルモグラフィーに並んで紹介されていたのだが、それらの版元は書かれていたけれども、翻訳者の情報はなかった。職業柄、思わざるをえないのだが、ちゃんと載せて欲しいな。

2014年7月11日金曜日

Donde hay amor hay dolor (愛あるところに痛みあり)

ちょっと前にいただいていたのだった。『中央評論』No.287。『アマディス・デ・ガウラ』福井千春訳の第二回が掲載されている。第一章、アマディスが生まれるところだ。訳あって母の許を離れることになる。貴種流離譚の典型だ。ワクワクの展開。

都甲幸治『狂喜の読み屋』(共和国、2014)もご恵贈いただいた。都甲さんがここ数年いくつかの媒体に書いてきた書評を中心とする文章をまとめたもの。『野生の探偵たち』の書評も、そう言えば、都甲さんが『読売新聞』に書いてくださったのだった。

こうした媒体のみならず、「必修基礎演習ガイドブック」なんて早稲田の教科書に載せたソンタグ『隠喩としての病』を薦める文章なども収められているのだから、都甲さんもちゃんと大学の仕事もしているのね、とわかるのであった。

ジョン・タトゥーロ『ジゴロ・イン・ニューヨーク』(アメリカ合衆国、2013)は、あのジョン・タトゥーロが(『天井桟敷のみだらな人々』以来か?)、ウディ・アレンを配して撮ったウディ風の都会派コメディ(というのか、こういうの?)だ。ちょっとしたきっかけでマレー(アレン)がフィオラヴァンテ(タトゥーロ)をジゴロとして手配することになり、軌道に乗るが、客として導いたさる高名なラビの未亡人アヴィガル(ヴァネッサ・パラディ)との間に恋が芽生えてしまう、という話。

「ウディ風」と書いたけれども、ウディ・アレンはこうは撮らないだろう、と思える箇所もいくつかあって、例えば、ジゴロとして最初の顧客パーカー(シャロン・ストーン)の家に出向いたときの、リヴィングを俯瞰するショットとか、そのガールフレンドのセリマ(ソフィア・ベルガラ)との顔合わせでダンスをするところとか、……こうした場所はクエンティン・タランティーノやコーエン兄弟、スパイク・リーら、タトゥーロを俳優として好んで起用したシネアストらから学んだところか? 


ニューヨークの多言語状況やユダヤ人社会に触れ、ペダンティックな引用も散りばめ、ウディ・アレン以上にウディ風なところもあって、それもまた面白い。初対面のヴァネッサ・パラディに対し、セファルディ(スペインなどに住むディアスポラ・ユダヤ人)だとのウディの噓に合わせ、タトゥーロは "Donde hay amor hay dolor"と言ってみせる。パラディは「ラディーノ語?」と確認。そうだ、と応えたものだから、彼女は「本物だ」と返す。ぼくはラディーノ語は知らないので、それがそうではないと言い切れないのだが、ぼくにはこのセリフは上に書いたスペイン語に聞こえた。笑うべき箇所なのだかそうでないのだか……

2014年7月6日日曜日

戦後の思考/記憶(2) ——前近代の残存

木村榮一が著書『謎解きガルシア=マルケス』(新潮選書、2014)ブニュエルの回想録(『映画わが自由の幻想』)の、第一次世界大戦ころまでスペインの田舎には中世が根強く残っていたと書いた箇所を引き、それをスペインおよび旧スペイン植民地のラテンアメリカ諸国特有の特徴だと敷衍している。

うーむ。ガルシア=マルケス論という文脈を考えれば、そこに目くじら立てるほどのことはないが、実際には、中世(少なくとも前近代、と呼んでおこうか)が残存していたのは、世界中どこでも事情は同じではないのかな、と疑問に思う。第一次世界大戦はドラスティックに世界を変えた。そこから緩慢な20世紀の進行が始まった。18世紀の産業革命、19世紀の都市化というが、それらは都市の景色と生活習慣を変えたのであって、田舎町はそんなに変わらないだろう。モダニズムとは田舎から都会にやって来ることによって数百年の時をまたいでしまった者の感じる眩暈の謂いにほかならない。「モダン」が騒がれていたころまでは、それに対抗するプレモダンがあったのだ。それが田舎なのだ。たぶん。そのモダンの感覚が、第一次世界大戦後、緩慢に消されていった。

この写真はぼくの育った鹿児島県大島郡笠利町(当時)大字屋仁の集落の前の海だ(ぼくのPCのデスクトップにもなっている)。裏の蒲生山から2010年ころに撮った写真だ。写真右手、入り江の奥にその集落はある。この海に渡されたコンクリートの護岸、これが珊瑚礁を損なうものであることは言うまでもないが、文化の面では、これは少なくとも3つの習慣を駆逐するものだった。ぼくはあまり頻繁に帰省しないので、これがいつごろできたのかは知らないが、90年代と推測される。言っておくが、1990年代だ。ぼくがこの海で泳いでいたころには、こんなものはなかったのだ。

さて、この護岸だかなんだかが壊したものは、徒歩による歩行と船による移動、そして12世紀からあったとされるある施設だ。詰まるところ、前近代を破壊したのだ。それが、1990年代後半のことのはずなのだ。

奄美は日本本土がそうであるように、山がちな島に、海岸沿いのわずかばかり平坦になった場所に集落が点在している。ぼくたちが子供のころまで、各集落の前には結構な数の船(はしけ程度のものだ。スプネと言ったように思う)が繋がれていた。近代化のわずかな名残は、引き潮のとき以外は海に入り込む位置まで達するコンクリートのスロープであり、そこにレールのようなものが敷かれていた。もう少し大きな船用なのだと思う。ともかく、浜に繋がれた船で人は、ちょっと沖に出て魚を釣った。以前は、それは移動の手段でもあった。

船で移動したのだ。戦後すぐまで、人々は。島にバスが導入されるのは岩崎バスが復帰直前の53年12月、奄美交通は54年。ぼくは子供のころはバスを利用していたのだが、戦後すぐの島の人々は歩いたのだ。多くは裸足で。そうでなければ船に乗っていたのだ。

この写真の向こうに見えている佐仁という集落から名瀬に向かう航路があったのだと、母は後に述懐していた。我々の集落の沖でも泊まったので、てんまと呼ばれるはしけに乗ってその船まで行き、それで名瀬に渡ったのだと。冬などは寒かった、と、もう80になろうとするころに母は、10代の日々を振り返って凍えるような仕草をした。

乗り合いの船でなくとも、船を浜に繋留して持っている者は、それで移動した。そうした時代の名残はいまだに、島の南部、瀬戸内町に行けば確認できると思う。はしけにモーターをつけただけの水上タクシーが向かいの加計呂麻島やその先の請島の間を行ったり来たりしている。

いつの間にか写真の施設ができ、浜には船が見当たらなくなった。

船に乗って名瀬に行っていた10代の母は、船に乗らないときには歩いて行ったのだ。そして歩くときは、もちろん、裸足だった。道など舗装されていない。ぼくたちの集落から名瀬までの道が完全に舗装されたのは、やっとぼくが中学のときだったからだ。前に書いたことだが、大宅壮一は復帰の翌年、つまり1954年、奄美を訪れ、名瀬以外の田舎での人々の暮らしが「土人のようである」と書いた。裸足に、ほとんど裸だと。復帰の10年後に生まれたぼくは弱っちいのでそんなことはなかったが、友人たちは本気になるとき(例えば運動会の徒競走で)、裸足になったものだ。


さて、この施設が壊した12世紀からのある施設、というものについては、また別の機会に書こう。

2014年7月5日土曜日

戦後の思考/記憶(1)

大江健三郎の著書のタイトルに倣って言えば、「核時代の想像力」で教養形成したぼくらは、その後、90年代に柄谷行人が「戦前の思考」(やはり著書のタイトル)と言ったことにおののいたものだ。で、ちょっと前に、ある劇を観てぼくは今では人は戦時中の想像力を生きているのじゃないかと書いたことがあった。岩上安身が伝えるように、一部の官僚たちが戦争はやむをえないと見なしているのなら、想像力は時代に対応する。もちろん、戦争など反対だし、そんな動きを容認する気もないのだが、一方で、ぼくは時代の少しだけ先を行きたい。もうすぐ戦争が始まるのなら、先取りして戦後を考えようじゃないか。

戦後を考えると言ったって、ぼくには未来予知はできないし、する気もないので、前回の戦後について覚えていることを整理しておこうというわけだ。「覚えていること」と言っても、ぼくは戦後18年経ってから(今にしてみれば、そんなに時間は経っていない)生まれた。当然、直接の記憶はない。でもぼくは覚えているのだ。人間の記憶とはそうしたものだからだ。でもその記憶は曖昧かもしれない。人間の記憶とはそうしたものだからだ。

ぼくが生まれたのは鹿児島県名瀬市。現・奄美市。育ったのは同大島郡笠利町。現・奄美市。終戦時、ぼくの父の家はまだ三方村という行政区分で、名瀬ではなかったけれども、ともかく、名瀬近郊だった。名瀬の街も空襲に遭った。1945年4月のことで、測候所などはそれでやられたので、後に郊外に移転。その後さらに郊外に移っている。

母は後年、B-29だかグラマンだかの爆撃機を見たと語っていたので、名瀬の爆撃に行くそれのことなのだろう。沖縄戦の激しさは噂に聞いていたし、名瀬は爆撃されるしで、だいぶ切迫感はあったかもしれない。母の家の近くにも防空壕があった。いくつあったかは知らないが、少なくともそのひとつを、子供のころのぼくらは目にしていた。集落の裏にある蒲生山と呼ばれる山に登る途中にそれはあった。

さて、終戦後、1946年2月2日、日本の領土に関する覚え書き、いわゆる2・2宣言というやつで、北緯30度以南は日本と見なさないことにするとされた(「北緯三十度線/それは空間にはない/民族の心臓をつらぬく内在線だ/致命線だ 屈辱線だ」と詩人・泉芳朗は詠んだのだった)。種子島・屋久島までは日本、そこから南は南西諸島軍政官区(後に琉球政府)とされた。サンフランシスコ講和条約の発効まで、確かに、日本には主権は認められなかったのだが、主権のあるなしとは別個に、ここは日本ではないとされたのだ。分割統治されたのだ。

戦争は1945年8月15日で終わり、その日から何もかもが一新したのではない。引き揚げ者の問題があった。引き揚げには時間がかかった。46年2月2日以降引き揚げて内地に戻った軍閥や民間人のうち、そんなわけで、奄美・沖縄・トカラ列島に家を持つ者は途方に暮れた。日本に戻ってきたのに、日本でない場所に出なければならないので、また面倒な手続きが必要になったのだ。3月18日には奄美・沖縄への引き揚げ輸送は停止される。

そこで起きたのが宝栄丸の事故。8月3日、宇検村出身の二人が競売にかけられた木造機帆船〈宝栄丸〉を二束三文で買い、故郷に帰りたがっている同胞たちを乗せ鹿児島港を出港した。途中、指宿と山川にも寄ってさらに人を積み、パンパンになってゆっくりと東シナ海を南下した。宝島を過ぎたら、ちょっと左に舵を切れば奄美大島に着く。が、そんな分岐点にさしかかったころに船が不調になり、修理のために島の沖に停泊することにした(港などというものは整備されていないのだ。はしけでないと近寄れない)。この機を利用して、一部ははしけに乗って島に渡り、物資の調達を行った。調達班が雨をやり過ごすために鍾乳洞で雨宿りしていると、宝栄丸はふらふらと沖に流れ去ってしまった。錨が切れたのだ。

船は黒潮と風に乗って北上、翌日、中之島の港に到達。修理もまだ終えていなかったので、乗客全員を下船させようとしたところ、大波にあおられて転覆、100人ばかりは助かったが、50人ばかりが死ぬか行方不明になるかした。

宝島に残された者たちの一部は手漕ぎで奄美に渡ることを決意、手作りのいかだで南に向かった。無事、大和村にたどり着いた。

月末には大島を出た救助船十島丸が宝島と中之島にいた遭難者を救出、鹿児島に送り届けた。鹿児島に、だ。

宝栄丸のことは佐竹京子編著『軍政下奄美の密航・密貿易』(南方新社、2003)に詳しい。


記憶が蘇ったら、第2回がある……かも? 

2014年7月1日火曜日

運命を告げる鳥を待ちわびる

マルティン・フィエロが官憲に追い詰められ、万事休すとなったとき、クルスという警官が助けに入った。この男を殺すことだけはあってはならないと。

その話をボルヘスは「タデオ・イシドロ・クルスの伝記」という短編に展開した。ボルヘスの解釈によれば、「どれほど長く入り組んだものであっても、あらゆる運命は実のところたった一瞬から成っている。つまり、人が自分が誰なのかを永遠に知る瞬間のことである」(木村榮一訳)。木村榮一が「サケビ鳥」と訳したチャハーが泣いた瞬間、クルスは自分がフィエロであると知り、フィエロの側につく。

アウレリャノ・ブエンディア大佐が銃殺されようとする瞬間、銃殺隊を率いていたロケ・カルニセロは、アウレリャノを殺してはならないと気づき、連れたってさらなる反乱に旅立つ。

クルスもカルニセロも寝返ったのではない。彼らは運命として正しい側についたのだ。裏切りではなく、自覚だ。


誰かの耳元で運命を告げる鳥チャハーが泣くこと、¡Basta ya! と叫ぶべきだと気づくこと。明日の準備をしながら今日、そんなことを待望している。