2011年5月31日火曜日

比喩で世界を開く

今日はまず博士論文の審査に行った。ぼくが学位を申請したわけでもない(2003年に取得済み)し、審査したわけでもない。一聴衆としてだ。主査の人が来てね、と言っていたので。申請者は松久玲子さん。ぼくなどより先輩だ。タイトルは「メキシコにおける近代公教育の形成とジェンダー・ポリティクス」。タイトルからうかがい知れるように、教育によってジェンダー役割などが制度化・規範化される過程を記述しようとの試み……とぼくは理解した。

次いで東京大学へ。

……と言っても、本当はこれを読んだということ。辻原登『東京大学で世界文学を学ぶ』(集英社、2011)。

そして辻原さん自身は東海大学の専任の先生のはずだ。が、東大での講義を本にしたもの。

リアリズムというのを、ただ現実模写というふうにとらえてはいけない。それは散文の本質なのです。今まで見なれていたもの、見なれたせいで見えなかったものを、新しい隠喩、新しい表現で揺り動かす。これがリアリズムの基本です。(29ページ)

第1講義のタイトルは「我々はみなゴーゴリから、その外套の下からやってきた」。ドストエフスキーのこの言葉を説明するのに、辻原はナボコフを引く。ナボコフが、ロシア語の散文はゴーゴリから始まると、彼のおかげでわれわれは夜明け前の水平線が緑色であることを知った、と言ったことを引く。水平線は本当に緑色なのではない。読者はゴーゴリの言葉に触れてはじめてそれが緑色であったことに気づくのだというのだ。それがリアリズム。それが新しい隠喩。すぐ近くで辻原はこれを始原の問題だとも言っているのだけれども、始原とはそういう意味だ。一文から世界が開けるのだ。開闢だ。言葉でもって世界を開く。それが文学の問題。