さて、『週刊読書人』実物はやっと今日になって送られて来たことだし、もう少しキューバについて。
というより、『低開発の記憶』について。
小説『低開発の記憶』は映画『低開発の記憶』の原作だ。映画は原作にだいたい忠実に作られている。主人公の「僕」(映画ではセルヒオ)が革命後のキューバに残り(家族や友人は続々と合衆国に逃げる)、使用人のノエミに夢想したり街で引っかけた若い女の子エレーナに翻弄されたりする話だ。クライマックスが十月危機。いわゆるキューバ危機。ケネディのラジオ・メッセージやカストロの演説などが引用され、主人公によって目撃された夜の街を行く戦車などが緊迫感を高める。
映画との違いは、小説では「十月危機は過ぎ去った」で始まる数行が小説を閉じていること。
また、小田訳と今回の訳の最大の違いのひとつは、小説内で「僕」が書いたことになっている3つの短編が、そのまま同じタイトルで添えられていること。
はっとさせられるのは、十月危機を告げるラジオ。歌が流れていたラジオが中断され、ケネディのメッセージが流れてくる。その直前には、「アメリカのラジオ局の雑音も邪魔だった。耳障りにならないように、そしてすべてがとても気持ちよく感じられるようにと、自分のための放送みたいに快く思える局を選んでいたら、偶然ダイアルが合ってしまったのだ」(134)
家政婦のノエミとついに関係を持ち、ベッドにともに寝転がっていた「僕」は、つまり、アメリカの、アメリカ合衆国のラジオを聴いていたのだ。
ぼくが子供のころ、ラジオを聴いていると(ぼくはTVなんかよりラジオをよく聴く方だった)、よく朝鮮語の放送が雑音として入って来た。韓国のものなのか北朝鮮のものなのかまではわからない。でも、ともかく、朝鮮語だ。そのくらいの距離なら、ラジオは入るのだ。キューバでは……ハバナではフロリダあたりのラジオなら入るのだ。90マイルしか離れていないのだから。だから反革命派のキューバ系アメリカ人(「ウジ虫」たち)はラジオ・マルティなんてメディアでUSAからハバナに向けて反革命キャンペーンを張ることができるのだ。
長距離の(つまりUSAからの)電話が混戦するようになったりと、メディアの混乱も騒擾の存在を強く感じさせて緊迫感のあるクライマックスだ。