2011年5月4日水曜日

演説とテクスト

昨日記事内に組み込んだYou Tubeの映像、もう削除されてしまったようだ。残念。目障りだから外しておこう。

演説と言えば、やはり昨日引用したフィデル・カストロ。長く魅力的な演説で知られるカストロは、伊高浩昭をして「フィデル・カストロの演説を聴くためだけでも、スペイン語を学ぶ価値がある」(『キューバ変貌』〔三省堂、1999〕)と言わしめたのだが、そのカストロの演説を、アメリカ合衆国は革命成就当初、すべて傍受してテクストに起こそうとしたことがあったのだとか。そのことを紹介しながらブライアン・ラテルは言っている。「フィデルが過去一〇〇年間で最もカリスマに富んだ世界的人物の数少ない一人であるのは疑いない。だが彼の言葉は劇的な演説の流れから離れて一度文字化されると、驚くほどに凡庸なのだ。」(『フィデル・カストロ後のキューバ』〔伊高浩昭訳、作品社、2006〕

ええ、ええ、どうせぼくはその「凡庸」なテクストを「監訳」(という形ではあったけど、ほとんど自分でやったようなものだ)したりしましたよ……ま、ガルシア=マルケスも、フィデルが70年代に演説原稿を書き始めたらつまらない演説に堕したと言っていた。

過去に一度だけ授業で1962年に『P・M』という映画が検閲を受けて上映禁止になり、フィデルが知識人たちの前で演説を行い、それが革命政府の文化政策を規定することになったという話をしたことがある。そのときに発された有名な言葉が、「革命の範囲内なら何をやってもいい、革命の範囲外ならば一切が許されない」Dentro de la Revolución, todo, fuera de la Revolución, nada だ。これなんかも、字面だけ見ればあっさりとしたものだが、フィデルがあの独特の身振りを交えながら言ったら、とてもインパクトがあるだろうな、と思ったものだ。で、学生の前で真似して見せた。

……何をやってるんだろう、おれ?

まあカストロはともかくとして、逆のことは常に考えなければなるまいと思う。ぼくらは……我々の職業のものは良く、論文の原稿を書いてからそれをそのまま口頭発表として読み上げるということをやってしまいがちだ。そういう発表が聴いていてえらく退屈に聞こえることがある。書かれたものが面白くても、だ。

書き言葉と話し言葉は別もの、と言ってしまえばそれまでのことだが、常に念頭に置いておかなければならないこと。