2011年5月27日金曜日

「見ざる」の前で「なんでも見てやろう」の人を思い出す

オリエンテーション旅行で鬼怒川温泉に行った。二日目の今日は日光東照宮界隈を散策。「見ざる、聞かざる、言わざる」のいわゆる三猿。

その間に、先日、伊高浩昭さんと行った対談の掲載された『週刊読書人』が発売された。

旅行の間に読もうと思っていたけれども、思ったほど読めなかったのは、ご恵贈いただいた本。

エドムンド・デスノエス『低開発の記憶』野谷文昭訳(白水社、2011)

これは、同『いやし難い記憶』小田実訳(筑摩書房、1972)の新訳。そしてもちろん、トマス・グティエレス=アレアの映画『低開発の記憶』の原作。小田訳は作者本人による英語版からの翻訳。

ヘミングウエイ批判やエドムンド・デスノエス(!)批判が展開されて楽しいパッセージがあるのだが、その中に、こんな一節がある。

(カルペンティエルは)アメリカ大陸の野蛮の記録者として悪くない。彼は低開発の中から新世界の風景と馬鹿げた歴史を引き出すことに成功している。(76)
カルペンティエルは自分の才能を示すために革命を必要としない唯一の作家だ! (78-79)

ぼくはこの小説はずっと以前、小田訳で読んだきりだったのだが、はて、こんな一節あっただろうか? すっかり忘れていたな、と思って見てみた。表記は「カルペンティエ」。まあこれはいいだろう。この作家の名に注がついていて、説明がある。

現代キューバを代表する作家だろう。作家で革命に加わったと言える人物は少ない。カルペンティエとそのほかひとりか二人ぐらいだと、共産党のえらいさんが私に言ったことがある。(99、太字は引用者)

カルペンティエール(ぼくはこの表記で行く)の『失われた足跡』が訳されたのが1975年。それよりも前の72年の時点でのキューバ、もしくはラテンアメリカの文学の認知度が知れるというもの。「現代キューバを代表する作家だろう」……