2011年4月6日水曜日

ディジタル的深みを堪能する

1月に紹介した土濵笑店でランチの鶏飯を食べてから、円山町のラブホテル街を抜けてユーロスペースで映画を観てきた。

クラウディア・リョサ『悲しみのミルク』(ペルー、2008)マガリ・ソリエル他

前提が衝撃的だ。ゲリラ兵士たちにレイプされ殺された女の無念を即興の歌(ケチュア語)で歌う母がいて、それを受ける娘ファウスタ(ソリエル)がいる。娘は母の乳を通じてこの無念と恐れを受け継いでいると信じ込み、それを恐乳病と呼んでいる。La teta asustada これが原題だ。このファウスタ、レイプされないようにと、子供のころ、膣内にジャガイモを入れたというのだ。ペルー、80年代のセンデロ・ルミノソのゲリラ活動盛んなりしころの記憶。それが衝撃の前提。

母が死に、リマに埋葬することを拒んだファウスタは、しばらく母の死体を家に保管し(これも衝撃だ)、金を作って、ゲリラを恐れて逃げてきた故郷の村に埋葬したいと願う。身を寄せるリマ郊外のおじ夫婦の家から市内の市場を抜けたところにある豪邸に家政婦の仕事に通うことになる。

屋敷の女主人は定例のコンサートを控えて作曲しなければならないのだけど、できずに苦しんでいるピアニスト。その彼女がファウスタの歌を聞きつけ、頼み込んでさらに歌わせる。そこからインスピレーションを受けて新曲ができるという感動のお話かと思いきや、そうではなく、要するにこれを剽窃して、ファウスタにひどい仕打ちをする、という、これもまあ、いってみれば衝撃の展開。

『悲しみのミルク』は、たしかに、ペルーの凄惨な記憶を前提にしているが、そのことだけを強調しすぎると、この映画は捉え損なうだろう。むしろ、展開に不満を持つ社会派の人々もいるかもしれない。これは巧みな語り口を発揮して飽きさせない映画だ。そのことが併せて評価されなければならないだろう。

ひとつだけ例を:ファウスタの奉公先で、初めて女主人と対面(対面ですらないのだが)するシーンだ。台所で待機していたファウストにピアノの音が聞こえてくる。つっかえつっかえなのだから、不調であることがわかる。やがて、バーン! と鍵盤を叩く音がして、続いて呼び出しのベルが鳴る。ピアノの置いてある食堂に行ってみると、女主人の姿はない。それからいくつか部屋を巡って探してみるが、どこにもいない。寝室に行ってみると、中からドリルの音がする。壁に写真か何かを飾るために穴を開けているのだ。

ファウスタを前任者と勘違いした女主人は、こちらを振り返ろうともせず、その名を呼ぶ。ファウスタが名前を修正しても「ああ、どうでもいい」と言いながらドリルを差し出す。それをおそるおそる受け取るファウスタの目に、椅子に立てかけられた額入りの肖像写真が入る。カメラは、しかし、首から下の軍服姿だけをフレームに収めている。代わりに、その額のガラスが鏡がわりとなってファウスタの顔が写りこんでいる。ファウスタの目が肖像画の顔を見た(と思われる)瞬間、彼女は気分が悪くなって駆け出す。

そのときはじめて、女主人は後を振り返り、やっとその顔を見せるのだ。何しろ渋谷に向かう電車の中でエベリオ・ロセーロ『顔のない軍隊』を読み終えたばかりのぼくには、このシーンには実に興味をそそられた。

この出会いのシーンのうまさ、こうした手練れの技巧(はっと息をのむほどではないにしても)が全編続くから、これは面白い映画なのだ。撮影はナターシャ・ブレイア。ホセ・ルイス・ゲリン『シルビアのいる街で』の撮影監督だ。いかにもディジタルなりの深み(背景のあからさまなボケ)を出していて美しい。

ところで、この邦題、どうなのだろう? 原題は、上にも書いたとおり、字幕で「恐乳病」とされた恐れ。「おどろいた乳房」もしくは「おどかされている授乳作用」。それが『悲しみのミルク』では、母乳なんだか牛乳なんだか脱脂粉乳なんだかわからない。

これは英訳の翻訳なのだろうか? 公式サイトでもパンフレットでもThe Milk of Sorrowという英題を前面にかかげているのは、いかにもダサイ。映画の作りのうまさに対応していないな、このダサさ。ケチュア語を敢えて排除しなかった映画だ。それがなぜ英題なのだ?

2009年に東京フィルメックスで一度上映された作品が、こうして一般公開されているのだという。