ある人が、自分のブログで「日本では国立大学が偉い。しかし西洋ではそうではない。米国の有力大学はみな私立である。(略)英国も、オックスフォードやケンブリッジは私立である。(略)フランスやドイツは何かややこしいが、日本の国立大学で神学部だの仏教学部だの神道学部だのが、つくれるわけがないのである」と書いていた。
枕に過ぎないこの言葉に噛みつくつもりはないが、まったく……その「ややこしい」ドイツやフランスの例をちゃんと述べずして米英加だけの例をもって「西洋では」とくくる乱暴さにため息が出た。フランスのグラン・ゼコールやパリ大学の例など言わずして、「西洋」を語れるか? 事態は逆だ。米英の例が特異なのだ。そもそも「偉い」とはなんのことだろう?
以前どこかに書いたが、オックスブリッジやアイヴィ・リーグの例しかしらずして「欧米に比べて授業料が安い」というメリットがわれわれにあると書いた人物に対するのと同じような恐怖を感じた。
「偉い」日本の国立大学の中では、どちらかというとあまり偉くない方に属するのかもしれないぼくの大学(という自己卑下がこの大学の学生たちの多くに見られるように思う)の、しかし人格が高潔だという意味で「偉い」(ということにしておこう)学生たちのスペイン舞踊部のリサイタルに行ってきた。
ぼくはフラメンコを鑑賞し批評する言語を持たない。それが舞踊である限りにおいて体の切れなどはみていてわかる。そしてそれが人それぞれだということも。カンテ(歌)部の者とギタリストがギターと歌、パルマ(手拍子)のセッションを見せ、そのときにパルマの女性が即興で少し踊った。そういうインプロヴィゼーションなどはもっともっと見ていたかったとも思った。
府中グリーンプラザけやきホールでのこと。