イタロ・カルヴィーノ『アメリカ文学講義:新たな千年紀のための六つのメモ』米川良夫・和田忠彦訳(岩波文庫、2011)は、かつて『カルヴィーノの文学講義』というタイトルで朝日新聞社から出されていたもの。これを読んでぼくはジョルジュ・ペレックの面白みなどを教えられたように記憶する。それに、「補遺」として「始まりと終わり」の章を、故人となった米川良夫に代わって和田忠彦訳で加えて文庫にしたのが、今回の本。
ハーヴァード大学のノートン詩学講義に招かれたのだが、カルヴィーノは死んでしまい、その草稿だけが残された、それを出版したのが『文学講義』。前回の版ではまだメモに過ぎなかった「補遺」は削除されたけれども、今回、文庫化にあたって、遺族の意向を汲んでこの部分を加えたようだ。
サイードには『始まりの現象』という小説の始まり方を扱った本があるが、これは始まりに加えて終わりをも扱った草稿。メモの段階なので、本当はもっと十全に展開したかったのだろうとは思うが、それでも示唆に富む記述が見られる。
「おそらく始まりと終わりの問題が気に掛かるがゆえに、わたしは長編小説でなくショート・ストーリーの書き手になったのかもしれません。自分がこしらえた物語が独立し自律した世界で、そこに居つづけるというか少なくとも長居できるということが、どうやらわたしにはまったく納得できないみたいです。長居などせずに、この架空の世界を外部から捉え、数多ある可能世界のひとつとして、群島のなかの島のひとつとして、銀河のなかの天体のひとつとして見る必要に駆られるのです」(247)なんて記述を読むと、『レ・コスミコミケ』のあの素晴らしい銀河を思い出さないではいられないじゃないか!
それから、デイヴィッド・ダムロッシュ『世界文学とは何か?』秋草、奥、桐山、小松、平塚、山辺訳、沼野充義解説(国書刊行会、2011)なんてのも目を通したりしていたのだが、問題は、昨日書いた連休中にしなければならない勉強とは、これらとはまったく異なることなのであった。
さ、勉強勉強……? あれ? でも今日はこれから飲みに行くんだっけか?