2011年4月7日木曜日

そして誰もいなくなった

昨日ほのめかしたことだが、渋谷に向かう電車の中で読み終えたのは:

エベリオ・ロセーロ『顔のない軍隊』八重樫克彦・八重樫由貴子訳(作品社、2011)

コロンビアの田舎町、サン・ホセに暮らす引退した教師イスマエル・パソスによって語られる閉塞感。何が閉塞感をもたらしているかというと、軍隊の存在。軍隊は国軍と右派武装組織(パラミリターレス)、ゲリラという3つの異なる組織。政治的立場の異なる組織が、自らの地歩を固めるためにいつこの村を武力占拠するかしれたものではないという恐怖。つまりは、国は違うけれども、ゲリラに占拠され、暴力を受け、そこから逃れてきた人々を扱った昨日の映画の題材と、呼応しているという次第。

第1章で語られることは、しかし、このイスマエルという老人に覗き見趣味があるということ。とりわけ隣家の「ブラジル人」とあだ名される人物の妻ヘラルディーナにはぞっこんで、長年連れ添った妻オティリアにもほとほとあきれられている。

イスマエルの狒々じじいぶりはこの小説に俗っぽさというか、なまめかしさというか、そうしたものを与えていて、それがこの村の者たちを支配する死の恐怖と好対照をなしている。こんな感じだ。

周囲が夜の明かりに包まれていくなか、おれもコーヒーカップを手に持って、飲んでいるふりをしながらヘラルディーナを見つめている。昨日の朝は裸でいたが、今夜は服をつけている。とはいえ薄手の藤色のワンピース姿は、別の形の裸というか、ある意味、全裸よりもさらに淫靡かもしれん。ただ、裸であろうとなかろうと、別の形の裸であろうと、おれにとって肝心なのは、先日垣間見たように、背中全体を躍動させて、胸に心臓を厳かにも打ちつけて、上下する尻に魂を込めて、彼女が歩くとき、体の奥のひだが開かれ、秘部が露出するさまを拝むことだ。(32ページ)

まったく、こんな調子で下世話な話が進むものだから、いったいいつから緊迫が始まるのかよくわからないほどだ。

それでもこの村が緊迫していることは、4年前にマルコス・サルダリアガという人物が失踪している(つまりはゲリラかパラミリターレスに誘拐された)ということからもうかがい知れる。この人物の失踪した日3月9日にはイスマエルたちは残された妻オルテンシアを見舞いに訪れるというのだ。しかしこの日は、いろいろな偶然が重なって見舞いに行くことができなかったイスマエルが、あちこちに寄るうちに徐々に恐怖を感じていく。人か物か、何かよくわからないものの気配に体を強張らせ、ゲリラかパラミリターレスか、と身構えるようになってくるのだ(結局はそれは犬だったけれども)。そして帰宅してみると、ついには妻が行方不明になっている。

 そのままごろごろしていたところで、どうなるもんでもないだろう? 夜明けとともにベッドから抜け出し、おれは家をあとにして、昨日と同じ道をたどって崖まで行ってみた。朝日が当たるこの時間帯には正面の山がよく見渡せて、山腹に点在する家々が不朽の景観を誇っていたよ。一軒一軒は離れていても、ひとまとまりになっていてさ。今後も高くそびえる緑の山に、色どりを添えつづけることだろう。昔オティリアと出会う前には、余生はあそこでと夢見たもんだが、今やあれらの家はもぬけの殻か、住んでいてもわずかだろう。つい二年ほど前まで九十世帯が暮らしていたのに——麻薬密売組織と政府派遣の軍隊間、ゲリラとパラミリターレスのあいだに起こった——戦闘に巻き込まれ、多くが殺され、強制退去させられて、結局残ったのは十六世帯。この先、何世帯が残るだろうか、そう言うおれたちも残るだろうか? (65)

つまりこれは、「そして誰もいなくなった」という話なのだ。たとえばフリオ・リャマサーレス『黄色い雨』木村榮一訳(ソニーマガジンズ、2005)のように、死者(死に行くもの、死んでいるかもしれないもの)が語る、次々と、ひとりまたひとりと人がいなくなることの寂寞を語った物語なのだ。

徐々に人が消えていく恐怖。怖い。