2008年の10月最初の教授会の日、震えたのだった。空気が。大学が。ぼく自身が。ぼくの目の前に髪をボブにした若く美しい女性が座った。
「矛盾だ」とは美禰子を前にした三四郎のつぶやき。ぼくもつぶやいた。「矛盾だ」。
それが誰であるかは、座っている位置(ぼくの目の前というよりは、ぼくのはす向かいに座った人物の横、という意味)や、挨拶する相手から、すぐに察しがついた。事前に新任の先生のプロフィールは教授会で閲覧される。だからそんな人物が来ることは知っていた。彼女はぼくより10歳若かった。そして既に著書が一冊あった。ぼくたちにとっては著書(できうべくは学術書)の有無、その数が業績になる。言い換えれば、ぼくたちの研究者としての商品価値になる。そしてまたそれはぼくたちの人生でもある。40を超えてやっと著書を一冊出したばかりの怠惰なぼくにとって、10歳も若くして著書があるなど、羨望の的だ。分野が違うからいいようなものの、同分野であれば、ぼくは嫉妬の炎に焼かれたことだろう。そんな優れた研究者が、これがまたずいぶん若く潑溂たる表情の女性だったわけだ。「矛盾だ」とのぼくのつぶやきは、見た目についても劣等感に苛まれている(すでに初老の佇まいを見せる疲れた表情の)ぼくの、そんな叫びだったはずだ。矛盾だ。
かりに彼女をYとしておうこ。事実、Yは矛盾だった。彼女は北アイルランド連合維持派(ユニオニスト)の歴史を辿る学者であった。しかして彼女がその日そこにいたのは、多言語・多文化教育研究プロジェクトを担当する任期付き教員として赴任してのことだった。ぼくもそこの事業に、ほとんど詐欺のように引き込まれて、ある仕事を時々やるはめになっていた。つまり彼女は、ぼくの仕事を増やすためにやって来たと言ってもよかった。そしてその実、彼女はぼくからその仕事を和らげてくれることになる。詳しくは語らないが、彼女はぼくの救世主になったというわけだ。矛盾だった。
もともと国立大学法人化と共に始まった競争的経費のひとつであるGPのプロジェクトとして始まったものだ、「多言語・多文化」とは。一定の成果を収め、GP終了後に同じく時限つきでセンター化されたものだ。そこの運営にYは雇われたのだ。
ぼくもGPでは散々な目に遭っているので、苦労がしのばれるところだ。GPは学生支援のプロジェクトといいながら、学生の活動にはほとんど金を出せない仕組みになっているという矛盾も抱えている。しかし「多言語・多文化」は多くのボランティア学生とうまく協力してきた。東京近辺の小中学校や地域団体での教育支援要員を派遣してきた。それだけでも大変な仕事だ。そして困ったことに、これが学生たちに実に人気のある事業なのだ。Yはその事業に積極的に取り組み、学生たちの信頼を得ていった。
授業も持った。授業でも人気があった。少なくともぼくとつき合いのある学生たちはかなりの割合で彼女自身の授業と、彼女がコーディネートする「多言語・多文化センター」主催の授業プログラムのいくつかを受講している。そして、好印象を持っている。「Y先生がいれば外語の偏差値、50は上がる!」とはある学生の言。ま、それはいくら何でも言いすぎだけどね(だって、それじゃあ、偏差値の序列で最下位から最上位になると言っているようなもの)。ことほどさように、信頼を得ているということ。
好評を博していても、これはYにとって、少なくとも本意ではなかったはずだ。彼女の本職はプロジェクト運営などではないからだ。競争的経費(COEやGP)は教員が書類仕事に忙殺されるという矛盾を引き起こす。研究でも教育でもない、ひたすら書類を書くのだ。誰に向けてのものかもわからない書類を。文科省が大学教員を自分たちの下っ端の公務員ていどにしか見なしていないのだろう。Yは、いわば、この矛盾を抱え込むためにやって来た。
今年、「多言語・多文化教育研究プロジェクト」は年限を終える。事業は形を変えて継続はされるが、少なくともYは任期を終え、センターを去る。
大学教員の停滞からもたらされる不真面目さが弾劾され、大学改革の流れが始まった。国立大学が法人化された。競争的経費が導入された。それがもたらした結果がこれだ。研究業績が優れ、教育面でも学生に人気の人材が、任期が切れたという事務的理由で大学を去る。次の行き先は決まっていないらしい。
おそらく、これはひとり東京外国語大学の問題ではない。東京外国語大学は実に小さな、吹けば飛ぶような国立大学だ。この流れに逆らえるほどの体力はない。それを押しとどめるほどの存在感もない。そして、しかしこれは国立大学のみの問題でもない。全国のあらゆる大学が、これから第二のY、第三のYを生み出していくだろう。いやあるいは、Yはすでに第二のX、第三のXなのかもしれない。Yとは日本の高等教育の組織の矛盾そのものだ。矛盾に潰されようとしている余人をもって代え難い(これがぼたくちの使う常套句。でもこの場合は本気で使っている)人材のことだ。
2011年3月31日、彼女は「職を解く」との辞令を受け取るだろう。そのとき大学は、我が大学は、日本の大学は、大切な何かを失うのだ。ぼくは日本の高等教育を嘆く。そしてYを泣く。