ネタにはなるまいが、ちょっと気になることがあった。バルガス=リョサのこの本は、著者がある若い小説家に質問を受け、それに答える手紙を書く、という体裁で綴られた小説論。小説家たるための心構えのようなものも説いている。今、気になったのは小説論を展開しながら「時間」を扱った章のことだ。
まず、前提としてバルガス=リョサは、時間には外的時間と内的時間(意識の中の時間)があり、小説とは語り手の内的時間を展開するものだと述べる。そうした上で、語り手の内的時間は語られた時間と複雑な関係を持つとして、その関係のあり方を次の3つに分類する。
(a) 語り手の時間と語られた内容の時間が重なり合い、ひとつになることがあります。この場合、語り手は文法的時制の現在形で語ります。
(b) 語り手は過去の時点から、現在もしくは未来において起こる出来事を語ることがあります。そして最後に、
(c) 語り手は現在、もしくは未来に身を置くことがあります。そして、(直接的あるいは間接的な)過去において起こった出来事を語るのです。(72ページ)
おそらく、この最後の(c)のパターンが一番一般的な小説の時制のあり方だと思うのだが、バルガス=リョサは、これの例として世界で一番短い短編と呼ばれる、アウグスト・モンテローソの「恐竜」を引用する。
「彼が目を覚ましたとき、恐竜はまだあそこにいた。」(余談ながら、allí を機械的に「あそこ」と訳すのは木村榮一の癖だ)
Cuando despertó, el dinosaurio todavía estaba allí. (73)
で、目覚めるの意の動詞despertarが過去形(不定過去。ぼくたちの言い方で言う点過去)であるところが「間接的な過去」ということだと説明する。直接的な過去とは、これを現在完了形(本書では完了過去)に変えた文章なのだと。
Cuando ha despertado, el dinosaurio todavía está ahí. (74)
複文の二番目の動詞が不完了過去estaba(ぼくらの言う線過去)から現在形estáに変わっている。それが「直接的」の意味。そしてまたallíがahí (そこ)に変わってもいる。これも「直接的」ということなのだろうか?
さて、ここでバルガス=リョサは、今度は上の(a)の場合の例文を作ってみせる。いずれの動詞も現在形に活用させる場合だ。
Despierta y el dinosaurio todavía está ahí.(75)
作家はこの文章をあくまでも時制の問題として語るのだが、ぼくには別のことがとても気にかかる。接続詞cuando(……のとき)がなくなり、代わりに、ひとつめの動詞の直後に順接の接続詞y(と)が採用されていることだ。それに伴って、カンマ( , )が消えている。「彼は目を覚ます。するとそこにまだ恐竜がいる」。このcuandoからyへの接続詞の転換。時制の変化のみならず、ここにも「間接/直接」や「外的/内的」、「遠さ/近さ」の意味合いの差が潜んでいるように思うのだが、……だがそのことを説明する言葉を、今、ぼくは持たない。