2011年3月7日月曜日

魔術と拷問、麻薬と前兆

ぼくはパウロ・コエーリョというと、2冊ばかり訳者の方にいただいたので申し訳ていどに目を通したものがあり、かつて学生がレポートで取り上げたので確認のためにちょっと目をくれたというのが1冊、それに堀江慶が映画化した作品としての『ベロニカは死ぬことにした』(真木よう子が主演したやつだ)をCSで見たというほどのもので、あまりよくは知らない。が、今回、ご恵贈いただいたので、読んでみた。

フアン・アリアス『パウロ・コエーリョ 巡礼者の告白』八重樫克彦、八重樫由貴子訳(新評論、2011)

スペインのジャーナリストが何日も作家の家を訪れて行ったインタビューを、「前兆」「精神病院、監獄と拷問」、「私生活」、等々の11章に分けてまとめたもの。すでに章の名前に見られるように、コエーリョが精神病院で過ごしたことがあり(3度)、軍政期に当局から監禁され拷問を受けた経験があり(やはり3回。2度あることは3度あるというのが、コエーリョの得た確信だ)、麻薬におぼれ、両親によって強制された無神論からカトリックに帰依し、サンティアーゴ巡礼の経験があり、魔術を行い、……といった体験をしていると言ったら、スキャンダラスだろうか? 彼の小説などにそれらが反映されているのだと納得するだけだろうか? なるほど、ヒッピーがオールタナティヴな社会やスピリチュアルな世界に向かう、その既定路線を辿った人物であるのだな、と理解されるのだろうか? コエーリョは時にニューエイジ的だとも評されるらしいのだが、確かに、世代として経験として、ニューエイジだと思われるだろう。でも、すくなくとも拷問の件はそれとは別個にショッキングであるだろうと思う。

ショッキングであると同時に、これだけの遍歴は、人生として面白いことも間違いない。「作品が面白いのは作者が面白いからだ」と旦敬介は書いたのだった(『ライティング・マシーン——ウィリアム・S・バロウズ』インスクリプト、2010)。そういえば旦さんはコエーリョの翻訳者でもある(『悪魔とプリン嬢』角川書店、2002)。コエーリョの作品が読まれる所以だろう。ちなみに彼、作家として知られる以前に、作詞家としてたいそうなヒットを飛ばした人なのだそうだ。

教訓もある。「一度書き始めたら一日たりとも中断しないこと。中断すると続けられなくなるからね。時には中断しないために、旅行中、機内やホテルで書き続けることもある」(149ページ)。もちろん、これは小説を書く際のコエーリョの方針のことを語っているのだが、ことは小説に限らない。書き始めたら中断しないこと。どんなジャンルであれ、書いて表現するひとにとってはひとつの教訓だ。

ところで、これをいただいた報告をしたとき、ぼくは八重樫夫妻が家族総動員でやっているのじゃないかと冗談を書いた。近年の多産さに驚いてのことだ。しかしこの本、あとがきを読んでみると、もうずっと前に訳したものを7年がかりで出版に漕ぎ着けたのだとか。

……うむ。これも教訓だな。とにかく訳し、訳したら出してくれる出版社を諦めずに探すこと。

ぼくもベニート・ペレス=ガルドスの短めの長編の翻訳をある出版社に送ったっきりだ、などと嘆いていないで、出してくれる出版社を探す努力をした方がいいのだろうな。訳注まで網羅した完成稿、どこか出してくれないかな? あるいは、翻訳ではないけど、コルターサル『石蹴り遊び』論。