シネマート新宿でロドリゴ・ガルシア『愛する人』を観ようと、ロビーにいた。映画は15:10から。10分前に入場が許される。前の回の映画がまだ終わらないころだ。報道によれば14:46とのことだが、ロビーの時計は14:50くらいだったように思う。時間差があったのか進んでいただけなのか? 地震が起きた。最初、ゆっくりとした横揺れだったが、それだけで少し不気味なものだった。やがて客席入口のドアが揺れでバタンバタンと空いたり閉まったりし始めた。ベンチの反対側の端で座っていた春休み中の大学生らしい女の子が、顔を手で覆って静かに泣いていた。
まさにロドリゴ・ガルシアの映画の人物のような泣き方だな、と、その実とても怖がっていながら、一方でそんな悠長なことを考えられたのは、孤独でなく集団で被災することのせめてもの救いなのだろう。天井にひびが入ろうとしているのか、それとも照明器具と擦れ合っているだけなのか、そのあたりに粉塵が舞っているのが見え、いよいよ死を覚悟した。パニック障害を患ったころの恐怖がよみがえった。
ほどなく揺れが一段落したので、従業員に促されて階段から避難することに。死角になって見えなかったチケット売り場のあたりには物が散乱していた。外に出てみると、はす向かいの伊勢丹ではショーウィンドウ内のパネルが落ちている。ウィンドウが割れなかったのはせめてもの幸いだ。一方、その隣のビルの2階のカフェでは、客たちが何ごともなかったかのように優雅にお茶など楽しんでいる。でも、さらにその隣のビルのシースルー・エレベータは止まったまま動かない。立っているだけで何度か地面が揺れているのがわかった。
払い戻しを受け、駅に行ったら(途中のマツモトキヨシやサンドラッグは何ごともなかったらしいのに、近くのビルでは照明がエスカレータの上に落ちていた)、改札口の中には入れないと言われた。余震が続いてるので外に出ろと言われた。事実、揺れていた。客たちが急ぎ足で階段を上っていた。駅前に出てみると、目の前のアルタの大画面ではNHKのニュースが流されていて、東北の津波の惨状がライブで報じられていた。しばらくして雨粒が落ちてきたので、駅ビルの中に入った。そこで1時間ばかりもじっと待機していたら、体の芯から冷えてきた。仕方ない。タクシーを拾うか。
しかし、東口にはタクシーはいっこうにやってこなかった。タクシー乗り場のあたりは非常線が張られていた。外壁が倒壊でもしたのだろう。西口に回ったが、タクシー乗り場は長蛇の列。タクシーなど一台も見えない。
歩き始めた。ワシントンホテルでトイレに入って、ついでにここでタクシーを、と思ったら、やはり長蛇の列。仕方なしに歩き続けた。初台の駅で京王線が動いてはいまいかとのぞいてみたら、当然、動いていない。近くには友人も住んでいるのだが、電話は繋がらない。仕方がないから、山手通りを北上することにした。後で聞いたところ、初台駅の上にある新国立劇場ではオペラ劇場を避難所として開放したというのに、ぼくは選択を間違えた。
で、山手通りを北上、ぼくと同様歩いている人がかなりの数いた。中野坂上駅に着いたので、駅の上の本屋に入ってみると、ラジオが流れていて、被害状況、交通の状況を流していた。JRは止まっているとのこと。本当はこのまま山手通りを北上して東中野に着くころには動き始めていないかな、との淡い期待があったのだが、もうしばらく歩くことにした。
その前に、中野坂上の駅で丸ノ内線・大江戸線はどうかと思って下りたら、やはり動いていない。構内でドーナツを売っていたので、ひとつ買った。「お気をつけてお帰りください」と言われた。
青梅街道に入って歩いた。いっしょに歩く人がますます増えた。歩道はいっぱいだった。多くの人が青梅街道をそのまま歩いていたが、ぼくは途中で折れて、中野の駅に。中野駅のシャッターが下りていた。そうそう。鉄道ってすぐにこうしてシャッターを下ろす、非情な交通機関なのよね、と思った。思い出した。2002年4月、カラカスでの一時的なクーデタ直後、何度か小さな市民暴動が起きていたころ、こうして地下鉄からシャッターで閉め出され、ぼくは市の東側から西側まで歩いて帰ったのだった。そのことの記憶がよみがえり、タクシー乗り場も案の定長蛇の列だったので、ぼくは高円寺に向けて歩き始めた。
本当は、途中でホテルでもみつけて入ろうかと思っていたのだが、少なくとも見つけたホテルはどれも満室だった。仕方がないから歩き続けた。高円寺では一旦、タクシーの列に並んでみたが(ここでやっとJRが終日運転をやめると宣言したことを知ったので)、5分待っても10分待っても一台もタクシーは来ず、また冷えてきたので列を離れて歩き始めた。タクシー乗り場の隣の街灯は3つあったはずの照明がひとつ落ちていた。あるいは照明でなく、プレートかもしれない。ともかく、ぶら下がる物のない腕が1本、所在なさげに虚空に延びていた。
JR中央線は高円寺から吉祥寺まで(荻窪の前後を除いて)、ほとんど高架になったレールの下を歩いて辿ることができる。ぼくはそのように歩いた……ぼくたちはそのように歩いた。というのも、相変わらず大勢の人々が歩いていたのだ。阿佐ヶ谷では怪しげな風俗店らしいものが入っている古いビルの外壁がごく一部、崩れ落ちていた。阿佐ヶ谷と荻窪の間で、JRの点検員らしい人たち2人組が架線の状況を目視で確認しながら歩いていた。荻窪近くでは、近所の住民がぼくの前を歩く人に、人々のこの列はどうしたことかと訊ねていた。それほど人の列は途切れることはなかった。
だんだん股関節が痛くなってくる。歩く姿勢が悪いのだろうなと思う。でも人の列は途切れることはなく、こうなったら意地でも、とばかりにぼくも歩いていた。みんなけっこう陽気に歩いていたので、なんだか脱落するのもくやしかったのだ。西荻窪駅手前の高架下飲食店街ではいくつかの店が開いていたので、うなぎを食べた。もくもくと仕事をしていた店主は、金を払って出ようとするぼくに、「今日は帰りは大丈夫そうですか?」と訊ねてきた。さあ、どうですかね……
吉祥寺でもタクシー待ちの長蛇の列。二人連れの男女のうち、男が女に言う。「ここまで来れば家の庭みたいなものだ」。
まったくだ。ぼくはここから先、線路を辿るというよりは、勝手知ったる側道を縫って歩くことになる。気づいたのだ。人は駅前までタクシーに乗るわけではない。住宅街まで乗るのだ。であれば、住宅街の中を歩く方が、人が下りたばかりのタクシーをつかまえやすい。
我ながらいい考えだ。で、ともかく歩いた。不思議と列はいつまで経っても途切れることはない。股関節の痛みはいつしか内ももとふくらはぎ、すねの筋肉痛に変わっていた。けっこう疲れてきた。速度もだいぶ落ちてきた。
ある交差点を渡りしな、奇跡的に「空車」の文字を見つけたのは、吉祥寺過ぎてさらに1時間以上経っていたころだった。もう深夜近くなっていたと思う。「運転手さん、おれ、新宿からここまで歩いてきたんだよ」「ええっ! ご冗談を」……という会話を交わしたい衝動を感じたが、やめた。そんなタイプではない。運転手も余計なことは言わず、黙ってハンドルを握っていた。ほっとした。ふだんならそこから我が家までは車で10分くらいの距離なのだが、道が混んでいて、30分ばかりタクシーに乗って帰った。タクシーに乗ってる間も、それを捕まえようと手を挙げては中にぼくを見出し失望する人を何人かやり過ごした。
新宿から我が家まで、直線距離にすれば20Kmくらいなものだ。でも歩いてきた道のりはもっとある。府中市内の甲州街道には東京オリンピックの競歩の折り返し点のプレートがある。代々木の国立競技場から25Kmということだ。我が家はそこからさらに10Kmくらいの道のりであるはずだ。たどって来たルートも違うことだし、30-40Kmというところだろうか。
新宿の駅前で、集った人々をカメラに収める人がいた。ぼくは途中、崩れた外壁や、歩く人の帯、そして思わぬ発見となったすてきなバーや雑貨屋などをみながら、そしていつものように夜間撮影に強いキャノンのS90をバッグに忍ばせていたというのに、写真の1枚も撮らずじまいだった。つくづくとジャーナリストにはなれないな。なるつもりはないけど。