2011年3月22日火曜日

地震に酔い、映画に酔う

アレハンドロ・アメナーバル『アレクサンドリア』(スペイン、2009)

スペイン資本で、脚本には相棒のマテオ・ヒルが入っているし、製作はフェルナンド・ボバイラ。いつものメンバーだが、レイチェル・ワイズを主役に仰ぐこの映画は全編、英語で表現されている。

ぼくはかつて、アメナーバルについて、一貫して生と死の曖昧な境、あるいは引き延ばされた死を扱ってきたと説明した(『映画に学ぶスペイン語』)。そんなアメナーバルのことだから、この人はそのうち宗教へと向かうのじゃないかと思っていた。でもそのときにキリスト教の教義の問題とか、霊性の問題とかをストレートに扱ったりされてもつまらないなと危惧してもいた。『アレクサンドリア』を宗教を扱った映画と見なすならば、古代ローマ時代(400年前後)エジプトはアレクサンドリアのキリスト教徒による図書館焼き討ちのころを扱っているのだから、いわば宗教対立・宗教戦争の話ということになる。これはまた「キリスト教の教義の問題とか、霊性の問題とかをストレートに扱」う地点とはずいぶん離れているものだ。

死を考えるということは自然を考えるということだ。自然を考えるということは宇宙を考えることだ。この映画は死から宗教への視点の移動というよりは、死から宇宙観への飛躍、といった方がいいのかもしれない。ずいぶんと大きな飛躍だけど、宗教だって宇宙観を扱うものなのだから、まあ似たような飛躍だ。

中心となるプロットは2つ。アレクサンドリアに実在した女性哲学者ヒュパティア(ワイズ)がプトレマイオスの天動説を脱し、太陽系の楕円軌道を発見する(これは、フィクション)というもの。次にアレクサンドリア図書館の破壊(391年)、ユダヤ教徒への迫害(414年)、ヒュパティアの虐殺(415年)と続くアレクサンドリアにおけるキリスト教徒の蛮行の歴史。知の立場に立ちキリスト教への帰依を拒否したことがもとで彼女は虐殺されたという内容。また、彼女の弟子たちがローマの長官(オレステス〔オスカー・アイザック。むしろオスカル・イサクと言いたい〕)やキリスト教徒の司教(これは実在のシュネシオス〔ルパート・エヴァンス〕)になり、あるいは奴隷(ダオス〔マックス・ミンゲラ〕)が修道兵士になっていくことによって、それぞれがそれぞれの立場のために虐殺を防げなかった無念を描いて悲劇性を高めている。

こうしたプロットを支えるテーマが、円と楕円の対照。円の調和の美しさに目を奪われるあまり、プトレマイオスの天動説の矛盾を打破する論理を見いだせないヒュパティアが、2つの中心からの和が等距離である楕円の軌道に気づく過程が、聖と俗、つまりキリスト教とローマ皇帝の2つの権力が駆け引きをする政治の場と化したアレクサンドリアの現状と照応するように描かれていく。優れた天文学者・数学者であったヒュパティアの人生を描くにふさわしい、実に美しい図式的脚本だ。

原題はAGORA 言わずとしれた古代ギリシャ・ローマの公共広場だ。真ん中に円(アルファベットのO)を置き、もう少しで対称を描こうとしながらそれが得られないこの字面は、このタイトルの字面までが、この映画に実にふさわしい。

この映画のパンフの表紙。これは伝わっているヒュパティアの肖像画にかなり似せてあるように思う。

上映中に地震があった。幸い、上映中止にはならなかった。でも終わるまでずっと揺れているような気がした。地震酔いだな。