国立新美術館で「シュルレアリスム展」を見たのだが、その印象はまた別個。そこに行く途中に読み終わったので、時間順からいって、こっちを先に。
ジュノ・ディアス『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』都甲幸治、久保尚美訳(新潮クレストブックス、2011)。
オビに謳っている「マジックリアリズムとオタク文化が激突する、新世紀アメリカの青春小説」。背表紙で高橋源一郎が書いている。「ラテンアメリカに生まれたマジックリアリズムは、ニッポンのサブカルチャーと出会って更新される」。あとがきで都甲幸治が言う。「中南米マジックリアリズムのポップ・バージョンみたいだ」……しかし、もっと先ではこう言う。「中南米マジックリアリズム全体に喧嘩を売っているとしか思えないディアスの態度」……
ぼくは話すと長くなる理由から(アメリカ合衆国のアカデミズムが定着させたこけおどしの用語だ)、「マジックリアリズム」なんて語、死んでも使うものかと思っている。なので、使わない。
この小説はタイトルに要約されるようにオスカー・ワオの「短く凄まじい」人生を綴ったもの。ドミニカ移民の息子オスカーが、母親の故郷であるドミニカ共和国でついには恋人と結ばれようかというときに死ぬ話。タイトルにも明らかだし、オスカーが死ぬことはもうだいぶ最初の方でほのめかされるのだが、2度ほどその死の予感は肩すかしを食らい、物語がこうして引き延ばされる。
引き延ばされた物語の中で語られるのは、オスカーの母親ベリの若いころと、彼女の出生の秘密(かもしれないもの)、そしてその秘密(が正しいとすれば)が伝える父親アベラードとその家族の悲運。この悲運がドミニカ共和国を32年間の長きに渡って支配した独裁者ラファエル・レオニダス・トルヒーリョによってもたらされものであるというのがひとつの骨格。合衆国とドミニカ共和国が、現代と近過去の歴史が結びつけられる。この結びつきを説明する原理が、「フク」というカリブ海に巣くう一種のデーモン。トルヒーリョ(小説内ではトルヒーヨとの表記)がとんでもない人格なのも、オスカーの属するカブラル家の人々が不運なのも、あれもこれもこのフクに取り憑かれた結果のこととされる。この因果関係を冒頭で語っているのが、コミックに登場する超種族「ウォッチャー」であり、この語り手によって語られるオスカーの生活が、典型的な肥ったダサイ少年で、SFオタク、『猿の惑星』や『指輪物語』、『キャプテンハーロック』、『復活の日』(!)なんかに没頭する日々なのだから、「マジックリアリズムとオタク文化の衝突」などと紹介されているという次第。
しかし、この語り手「ウォッチャー」はいつしかオスカーの姉ロラの元恋人にしてオスカー自身の親友ユニオルに変わる(もしくはいくつかの転換の末に、そうであることが発覚する)し、SFオタクのオスカーは常に自分でもSF作家になろうとしているし、ユニオルは最後には自分自身がものを書く生活をしているしで、小説のそうしたもうひとつの骨格は実に古典的といえばあまりにも古典的な青春小説。そして古典的な青春小説は強い。面白い。ぼくなども千代田線の電車の中で思わず泣きそうになったものな。
一般的に言って小説の価値を保証するのは、そこに込められる情報量だ。筋は大した問題ではない。オスカーがSFオタクということになれば、それに関連する情報が詰まっていなければならない。オスカーが60年代生まれのドミニカ移民となれば、ドミニカとの関係性、親が影響を受けただろうトルヒーリョ時代のこと、そしてスペイン語混じりの英語などがふんだんに詰め込まれていなければならない。語り手が今や作家であるとなれば、サブカルチャーのみではない、「ハイカルチャー」としての文学への言及もなければならない。読者は全員が全員、これら3つの次元における情報に通じてはいないし、わからないものもあるだろうが、小説の読者とは、そうしたよくわからない情報をきっとあれのことだろうな、と予想しながら読むことに楽しみを覚える人種だ。オスカーが子供時代から親しむコミックやSF小説、映画、アニメなどの博覧強記の言及には圧倒される。それにいちいち訳注をつけている翻訳者たちの作業にも敬意を覚える。
同様に、英語圏の読者といえども、そこに挟まれる説明なしのスペイン語の単語や表現にはめまいを覚えたはずだ。必ずしもわかるとは限らない語や表現だろう。これもまた日本語に訳され(ただしルビが振られ)ている。「日本語版は世界初の『読んでわかるオスカー・ワオ』になったと自負している」と都甲幸治が書いたのは、訳注のみならずスペイン語も訳すという作業の賜物のことを言っている。