2011年3月24日木曜日

始原に還る、あるいは厄払い

ニーチェは文章を書くことは悪魔払いすることだと言った。われわれ日本人の読者ならば「悪魔払い」を「厄払い」と解するかもしれない。そうなると意味合いは少し和らぐだろうか。だがいずれにしろ、文章にはそうした、心や体に取り憑いて離れない、自らの意志ではどうにもならない他者を引き剥がす作用のようなものがある。

悪魔のような厄のような、心に重くのしかかって晴れない何かを取り除いたときに、一気に過去が取り戻されることがある。プルーストはそうしたものを求めて書き続けたのに違いない。何かを書くことによって過去を取り戻すなら、言い換えれば過去に戻るのならば、進歩史観を取る近代主義者は、これをして後退と呼ぶだろう。またしても日本語の俗な言い方に依拠すれば、そうではない、初心に還るのだ、と反論することもできるかもしれない。オクタビオ・パスならば始原に還ることだと主張するだろう。始原に還ることvueltaとは、これを繰り返せば反乱revueltaとなる。革命revoluciónとなる。過去に浸りきることには大いに問題があろうが、時に過去に立ち返ることは、こうして状況を一変させる強い原動力となる。

私は昨日、庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』(1969/中公文庫、2002)のことを語った。小説のある一節に強く心を打たれた経験を告白した。書き終えて風呂に入りながら、私はこの小説を何度も何度も読み返した高校生から大学入学までのころを思い出していたのだった。私はつまり、1980年から1983年の時間を取り戻していたのだ。

そのとき私が思い出したことのひとつは、上京したときに何の本を携えてきたかということだった。そのとき私が携えてきた本は以下のとおりだ。村上春樹の初期の3部作。庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』、サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』、ゲーテ『ファウスト』。ずいぶんばらばらな嗜好だと思われるかもしれない。二十歳にも満たない青年の読書傾向に指向性も嗜好もあるはずがないのだ。村上春樹は『羊をめぐる冒険』が前年後半に出ていて、まだそれを読み終えていなかったので、それを読みながら上京してきたように思う。つまり鹿児島空港から羽田空港に向かう全日空のボーイング747の機内でも読んでいたように思う。ゲーテとドストエフスキーは同じく読みかけだったから持ってきた。サリンジャーは荒地出版による『選集』を実家に置いてきたものの、後から親に郵送してもらったはずだ。『ライ麦畑』と『赤頭巾ちゃん』は、それから村上春樹の最初の2作(『風の歌をきけ』と『1973年のピンボール』)は、したがって、再読用ということになる。私はそんなことを思い出した。それらの本を入れたスーツケースの色と形状、手触りまでも含めて、当時を思い出した。

こうして過去を取り返してみると、いろいろな感慨がわいてきた。とりわけ昨日のブログ記事に引用した箇所に強く共感した時の、その感覚を思い出した。庄司薫は、その小説の主人公の薫くんは、知性とはしなやかなものだとの確信を得た。私はそれに強く共感した。爾来、私はしなやかさを持った人にのみ知性を感じ、共感を覚えてきた。目の前の事象や他者に対してしなやかな応対ができる人を尊敬してきた。ドグマやらドクサやらにとらわれて凝り固まった連中を、知性のかけらもないと切り捨てて断罪してきた。

そんな思いを新たにしたことを、昨日の文章に続けて書きたかったのだが、あの文体ではこのことを言うのにかなりの紙幅を要するだろうと思い断念した。こうして文体を変えてみれば、造作ないことだ。このことはまた庄司薫の小説の文体の計算しつくされた強靱さを反語的に証明することにもなる。あるいは逆かもしれない。昨日のあの文体ではニーチェやオクタビオ・パスを呼び出すことを私はできなかった。単に私の文章力の欠如なのかもしれない。それとも庄司薫的(疑似庄司薫的)口語文体の厄(さすがに悪魔とは言うまい)を払い落としたかっただけかもしれない。そんな厄があるとすればの話だが。