2014年7月5日土曜日

戦後の思考/記憶(1)

大江健三郎の著書のタイトルに倣って言えば、「核時代の想像力」で教養形成したぼくらは、その後、90年代に柄谷行人が「戦前の思考」(やはり著書のタイトル)と言ったことにおののいたものだ。で、ちょっと前に、ある劇を観てぼくは今では人は戦時中の想像力を生きているのじゃないかと書いたことがあった。岩上安身が伝えるように、一部の官僚たちが戦争はやむをえないと見なしているのなら、想像力は時代に対応する。もちろん、戦争など反対だし、そんな動きを容認する気もないのだが、一方で、ぼくは時代の少しだけ先を行きたい。もうすぐ戦争が始まるのなら、先取りして戦後を考えようじゃないか。

戦後を考えると言ったって、ぼくには未来予知はできないし、する気もないので、前回の戦後について覚えていることを整理しておこうというわけだ。「覚えていること」と言っても、ぼくは戦後18年経ってから(今にしてみれば、そんなに時間は経っていない)生まれた。当然、直接の記憶はない。でもぼくは覚えているのだ。人間の記憶とはそうしたものだからだ。でもその記憶は曖昧かもしれない。人間の記憶とはそうしたものだからだ。

ぼくが生まれたのは鹿児島県名瀬市。現・奄美市。育ったのは同大島郡笠利町。現・奄美市。終戦時、ぼくの父の家はまだ三方村という行政区分で、名瀬ではなかったけれども、ともかく、名瀬近郊だった。名瀬の街も空襲に遭った。1945年4月のことで、測候所などはそれでやられたので、後に郊外に移転。その後さらに郊外に移っている。

母は後年、B-29だかグラマンだかの爆撃機を見たと語っていたので、名瀬の爆撃に行くそれのことなのだろう。沖縄戦の激しさは噂に聞いていたし、名瀬は爆撃されるしで、だいぶ切迫感はあったかもしれない。母の家の近くにも防空壕があった。いくつあったかは知らないが、少なくともそのひとつを、子供のころのぼくらは目にしていた。集落の裏にある蒲生山と呼ばれる山に登る途中にそれはあった。

さて、終戦後、1946年2月2日、日本の領土に関する覚え書き、いわゆる2・2宣言というやつで、北緯30度以南は日本と見なさないことにするとされた(「北緯三十度線/それは空間にはない/民族の心臓をつらぬく内在線だ/致命線だ 屈辱線だ」と詩人・泉芳朗は詠んだのだった)。種子島・屋久島までは日本、そこから南は南西諸島軍政官区(後に琉球政府)とされた。サンフランシスコ講和条約の発効まで、確かに、日本には主権は認められなかったのだが、主権のあるなしとは別個に、ここは日本ではないとされたのだ。分割統治されたのだ。

戦争は1945年8月15日で終わり、その日から何もかもが一新したのではない。引き揚げ者の問題があった。引き揚げには時間がかかった。46年2月2日以降引き揚げて内地に戻った軍閥や民間人のうち、そんなわけで、奄美・沖縄・トカラ列島に家を持つ者は途方に暮れた。日本に戻ってきたのに、日本でない場所に出なければならないので、また面倒な手続きが必要になったのだ。3月18日には奄美・沖縄への引き揚げ輸送は停止される。

そこで起きたのが宝栄丸の事故。8月3日、宇検村出身の二人が競売にかけられた木造機帆船〈宝栄丸〉を二束三文で買い、故郷に帰りたがっている同胞たちを乗せ鹿児島港を出港した。途中、指宿と山川にも寄ってさらに人を積み、パンパンになってゆっくりと東シナ海を南下した。宝島を過ぎたら、ちょっと左に舵を切れば奄美大島に着く。が、そんな分岐点にさしかかったころに船が不調になり、修理のために島の沖に停泊することにした(港などというものは整備されていないのだ。はしけでないと近寄れない)。この機を利用して、一部ははしけに乗って島に渡り、物資の調達を行った。調達班が雨をやり過ごすために鍾乳洞で雨宿りしていると、宝栄丸はふらふらと沖に流れ去ってしまった。錨が切れたのだ。

船は黒潮と風に乗って北上、翌日、中之島の港に到達。修理もまだ終えていなかったので、乗客全員を下船させようとしたところ、大波にあおられて転覆、100人ばかりは助かったが、50人ばかりが死ぬか行方不明になるかした。

宝島に残された者たちの一部は手漕ぎで奄美に渡ることを決意、手作りのいかだで南に向かった。無事、大和村にたどり着いた。

月末には大島を出た救助船十島丸が宝島と中之島にいた遭難者を救出、鹿児島に送り届けた。鹿児島に、だ。

宝栄丸のことは佐竹京子編著『軍政下奄美の密航・密貿易』(南方新社、2003)に詳しい。


記憶が蘇ったら、第2回がある……かも?