2014年10月1日水曜日

授業が始まった

授業が始まった。

やれやれ。

前に告知したように、こんな催しでガルシア=マルケスの受容について話す。1983年、日本についてだ。あるふたつの『百年の孤独』の取り込みの形と、それが気づかれたのと気づかれなかったのとの差を考える。

そんなわけで、そのひとつは寺山修司の『さらば、箱舟』で、それを見返したりしているのだが、言いたいことがたくさん出てきて困る。

ある小説との対比で、その差は奈辺にあるか、などと問いかけたいのだ。寺山の例はとてもわかりやすい取り込みだけれども、その取り込み方はだいぶもうひとつの例と違うのではないか、と思うのだな。

さて、ところでぼくはそれら一篇の小説と一本の映画を、『百年の孤独』以前に知ったのだった。これらを『百年の孤独』の取り込みとして論じるためには、ぼくの記憶にひとつの転倒を加えなければならないのだ。

今日、非常勤先の早稲田大学で、19世紀の作品から見ていこうとして教材をコピーしながら、ふと思った。なぜぼくはこんな風にお行儀良く文学史風に時代を下っていくのだろう? ぼくらはだいたい、現代のものから馴染んで、時代を遡り、古典を愉しむようになるんじゃないのか? 


来年はちょっと逆向き文学史観というのを展開してみようかと思う。