10月に出る翻訳の校正に追われていた。校正が終わってもまだ採点が終わらないので、これにも追われている。どうしても1日のうち2、3時間は活字が頭に入らない時間帯があるので、根を詰めて、というほどではないにしても、だいたい机につきっぱなしだ。勘違いされがちだけど、ぼくらにはお盆休みやら夏休みやらといったものは無縁だ。
校正は一度、原文とつき合わせて細かく見た後に、ざっと一渡り原文なしで、語調とか細かい統一などをチェックするつもりで読み返したが、その二度目の読みに2日かけてしまった。200ページばかりのあまり長くない小説のゲラなのに。つまり、1日につき100ページくらいしか読めなかったということだ。
もちろん、原文から離れてとは言っても、実際には、その2回目の読みの最中も、何度も原文を見返していた。それでも、ずいぶんと少ないものだな、と悲しくなる。そういえば、学生のレポートだって、せいぜい2、3枚だ。それが100通あったとしても300ページだ。それに何日もかけているのだものな……
学生のころ、1日1冊、必ず本を読むのだと決心したことがあった。何が何でも、1冊、読む。厚さや難易度に無関係に1冊だ。読めなかったら、その場合は、読んだことと見なして、もう二度とその本は読めないものとする。そう思うと何が何でも読まなきゃと思うだろうから、そういうことにする、と決めた。例によって三日坊主になると困るので、あまり厳しすぎないように、たとえば読まない日があってもいい、とか、あまりにも面白いので絶対に読み終えたいけれども、1日で読めないものは2日かけることを許す、といった例外措置は設けながらではあったけれども。
そうしてみてわかったことは、意外にそのくらいはできるものだということ。場合によっては2冊だって可能だということ。そして、むしろそのくらいのスピードで読んだ方が頭に入ってくるものがあるということ(ということは、逆に、ゆっくり読んだ方が頭に入るものもあるということだが)。
さて、それで、校正の読みというのが、どうにも曖昧だからいけない。時間をかけなければならないことは間違いない。だから、まあ1日100ページしか読めなかったとしてもしかたがない。いや、1日10ページでもいいかもしれない。でも、速く読んだ方が誤植など見つかったりする(校正の主な目的のひとつは、これだ)ことがあるから困るのだ。あんなに何度も声に出して繰り返し読んでみても見つからなかった誤植やら「てにをは」の脱落やらが、ページに目をやっただけで次を捲ろうとした瞬間に見つかったりする。だから二度読むのだが、その二度目の読みで日に100ページしか読めないとなると、ずいぶんとゆっくりだなと落胆してしまうのだ。
もちろん、その間には採点対象の学生のレポートとか、他の本とか新聞、「あとがき」を書くための資料なども読んでいたのではあるが。
若いころ1日1冊、などと勢い込んだのは、おそらく、若さなりの焦りとか、スピードへの強迫観念とか、そういったものだろうと思う。今となっては本当に忙しくなって時間がなくなったし、人生の残りの時間なんてものもあまりないな、と思うからでもある。
ところで、……だから、1日1冊の原則。実は今でも堅持している。問題は、例外措置と見なすものが多いということだ。今日の1冊は……