2011年8月6日土曜日

土星との戦いを拡大せよ

サルバドール・プラセンシア『紙の民』藤井光訳(白水社、2011)

いつまで経っても寝小便をしてばかりのフェデリコ・デ・ラ・フェが妻メルセドに逃げられた後、娘のリトル・メルセドを伴ってアメリカ合衆国に移住、エルモンテという移住先の町で作ったエルモンテ・フローレス(EMF)というギャング団とともに、彼らを支配する存在である土星との戦いに挑む、という話。こう書けば何やら宇宙船でも出てきそうな雰囲気だが、そうではなくて、土星というのが実はサルバドール・プラセンシアという名であることが途中で明かされる。戦争というのはこの土星の作り出す世界での支配権を巡るもので、つまりは作者と登場人物の覇権争いということになってくる。

親子は移住の前にエル・サントとタイガーマスクのルチャ・リブレ(プロレスだ)の試合を見、移住の途中、紙でできたその名もメルセド・デ・パペルや、予言者たる子供ベビー・ノストラダムスに出会い、彼らの物語も発動しだす。それがつまり小説の世界が立ち上がるということだけれども、この世界を作っているのは物語内容だけではない。3つのストーリーを同時進行で語る段組形式などのレイアウトもまた世界の成り立ちに寄与している。

となるとこれは二重の基軸によるメタフィクションのようなものと言うことも可能かもしれない。ポストモダン小説だ。かつて高橋源一郎が書いたとしてもおかしくないような話だ。

でも、これをポストモダン小説などと断じるよりも前に、ぼくの立場からは明言しておきたい。この小説が発しているのは、強烈なメキシコの、そしてUSA西海岸チカーノ社会のむせかえるような臭気だということ。この臭いと意匠との配合具合が絶妙だ。ジュノ・ディアスの『オスカー・ワオ』が、本人がニュージャージーのリアリティを強調していたように、そのスペイン語の頻繁な使用やドミニカ共和国との繋がりにもかかわらず、その種のラティーノ社会的臭気がそれほど気にならなかったことに比べて対照的だ。

訳者の藤井光はプラセンシアがガルシア=マルケス『百年の孤独』を三年間読み続けたというエピソードを真っ先に紹介しているが、この小説がガルシア=マルケス的であるととりわけ意識されるのは、中ほどの16章でなされる明言:「ベビー・ノストラダムスは『紙の民』の結末を知っていた。簡素な十七文字の、「悲しみに続編など存在しないのである」という文で締めくくられるのである」。

しかし、たとえば、読者は写真のようなページ構成の遊びに耐えられるのだろうか? こうして文章の一部が塗りつぶされたり、途中から掠れていったりと、いろいろな仕掛けがしてある。

――耐えられるにきまっているじゃないか。先日、ジュノ・ディアスが言っていた。読者はわからないことがあっても読書を楽しめるのだ、と。作者と登場人物の戦いのみが土星戦争ではない。読者と小説の戦いも、この小説の土星戦争の一部なのだ。

ところで、土星の恋人の名がカメルーン。彼女の愛称がカミ。これが「紙」や「神」と同音異義語になるのは日本語だけだろうか? 翻訳もまた土星との戦いに挑んでいるのだった。土星の名はサルバドール。愛称、サル。土星とは猿の惑星だった……?