8月5日に書いた、前日のジュノ・ディアスのシンポジウムでの発言に関する記事、あの最後の段落は、実は、いったんブログに記事をアップした後に思い出して書き加えたもの。そのことの後悔があるせいか、ほぼ同じ内容をツイッターにも書いた。
ツイッターは自分を宛先にしたツイートや、自分の書いたツイートをリツイートした人の情報などを確認することができる。どうもジュノ・ディアスのこの言葉を紹介したツイートに対する反応が多いと思ったら、今見たら、100人を超える人がこれをリツイート(再生産だ。引用だ)しているらしい。作家になりたい人が多いのか、それとも仲間を希求している者が多いのか?
今朝、ぼく宛てにこんなツイートがあった。「日本の作家の先生方だとそんな弱い意志なら辞めちまえと言いそうだ・・・。」何についてのコメントかを明示していない。引用もしていないので定かではないが、おそらく、このディアスのことばについてのコメントだろうと思われる。そうだとして、この人の意図はわからない。「日本の作家の先生方」の名を借りてディアスを(あるいはそれを紹介したぼくを)批判しているのか、それとも、単に「日本の作家の先生方」に恐れのようなものを抱いているのか(実際に言われたわけでもなかろうに)、あるいはその恐れのようなものに仮託してディアスに賛意を表しているのか?
どちらの立場であったとしても、事実として誰かが言ったわけでもない「日本の作家の先生方」の言葉を基に、このツイートを書かれた方に論争を吹きかけるつもりはない。単なる感想だ。誰を仮定しているのか知らないが、「日本の作家の先生方」の中に、「作家志望だけど挫けそう」な青年に対して「そんな弱い意志ならやめちまえ」(「辞めちまえ」は妥当な漢字でないと思うので)と言う人がいるだろうか? いるとしたら、ぼくはそんな「作家の先生」の書いたものは読みたくないな。
つまり、人がなんらかの職業に就きたいとの意志を抱いたとして、それを堅固に維持することは本当に可能だろうか? ということ。可能だと信じている人などがいるのだろうか? ということ。そんなはずはないじゃないか、ということ。
ぼくはことさら、「意志」というものを抱いたことがない。意志決定とは選択だが、選択は常に本能的に、瞬時の判断で行ってきたと思う。そんな生き方だから、ぼくの中にあるのは将来に対する不安と、過去に対する後悔だけのような気がする。だいたい、ぼくは大学教師とかスペイン語文学の研究者になりたかったというよりは、カルペンティエールの作品を愛していたのであって、それがさまざまな刺激と選択の結果、今の仕事をしているのだ。「○○になりたい」という意志など不要だったし、それで良かったと思っている。
でも刺激とやる気、それにそれを与えてくれる仲間は必要としている。切実に求めている。授業が終わると講演会やら何やらに出かけてばかりいたのは刺激を求めてのことにほかならない。
土曜日にはプラセンシア『紙の民』を読み終えた勢いを駆ってそれについての柴田元幸×藤井光トークショーを聴きに新宿のジュンク堂まで行ってきた。白水社の本のイベントだったので、馴染みの編集者に誘われて、打ち上げの席にも就いた。トークショーの最中から藤井さんが最近のアメリカ文学の事情に通じること驚嘆すべきものがあると言っていた柴田さんが、その打ち上げの席で「藤井君はどんなところから情報を得ている?」なんて質問しているのを聞くと、アメリカ文学者ではないぼくだってやる気が新たにされるというものなのだ。
ま、ぼくはその横で別のさる翻訳家と、これまでに飲んだ究極の黒糖焼酎の話などをしていたのではあるが……
で、銘柄を忘れていたその焼酎を探し出し、これではないかと思われるものがあったので、注文してみた。そしてそれが届いた。「南の島の貴婦人」@朝日酒蔵。味見してみた。午前中から。ぼくの記憶とは少し違うので、あるいは本当はぼくが求めていたものは、同じ酒蔵が作った別のものかもしれないのだが、これはこれで美味。教えて差し上げなきゃ。
こういったことも、刺激とやる気のもと……なのか?