まあぼくはゴダールやトリュフォー、ロメール、シャブロルらの映画など半分も観ているかもあやしい、中途半端なシネフィルではあるけれども、なんといってもジャン=ポール・ベルモンドになりたいというのがぼくが自覚した最初の映画的自意識であったし、『突然炎のごとく』のジュールとジムみたいに男二人女ひとりのトリオでよく行動した日々もあったことだし、ついつい、こういう映画は観てしまうんだよな。
エマニュエル・ローラン『ふたりのヌーヴェルヴァーグ:ゴダールとトリュフォー』(フランス、2010)。
脚本をトリュフォーやゴダールの評伝を書いた批評家アントワーヌ・ド・ベックがつとめ(日本語字幕監修にはトリュフォー論の第一人者山田宏一が当たっている)、女優イジルド・ル・ベスコが資料をめくりながら二人のヌーヴェルヴァーグのシネアストの足跡を辿るという形式で、実際のフィルムや記録映像の断片をふんだんに挟んで作った映画だ。
映画の極めてはっきりした主張は以下のとおり。1)ヌーヴェルヴァーグとは『カイエ・デュ・シネマ』の急進派批評家たちが実作に乗り出して作ったブームであること。2)その中心はとりもなおさずトリュフォーとゴダールであること。3)その意味でヌーヴェルヴァーグの出発点は『大人はわかってくれない』がカンヌで上映され、『勝手にしやがれ』が撮影された1959年であること。4)トリュフォーとゴダールは対照的ではあるがとても仲がよかったこと。5)1968年のシネマテーク館長ラングロワ解雇問題こそがパリ5月革命への流れを作ったこと。6)その流れの中でトリュフォーとゴダールの方向性の違いが顕在化し、二人は仲違いするにいたること。6)『大人はわかってくれない』の主役ジャン=ピエール・レオーを取り合うふたりの父親としてトリュフォーとゴダールがいたこと。
最後の6)の要素が入ることによって(事実は確かにそのとおりなのだろうが)、映画の描くストーリーが一気にホモソーシャルな青春映画の様相を呈してくる。こんなストーリーだから、ぼくはそれに反発を覚えつつも泣きたくなってくる。エンドクレジットで山田宏一が喜んだレオーのオーディション映像が流れたことによって、かろうじて救われた。高校時代の両巨匠が偶然映った写真をかざし、これこそ映画の始まりにぴったりだとして始まるこの始まり方(といってもそれは開始後10分くらいのころのカットだが)からして、この映画はある種のストーリーを狙ったドキュメンタリーなのだ。
ベルイマンの『不良少女モニカ』に女優の官能性の表現方法を学んだとしてその映画のシーンを2つほど紹介し、レオーやジーン・セバーグがカメラを見つめて終わるふたりの作品を後に並べて見せるなどしてヌーヴェルヴァーグの成立についての解説に説得力を与えるその展開は、ぼくのような人間にとってはいくつかとても示唆的に感じられた。
そうそう。そういえばパリのシネマテーク。ベルトルッチの『ドリーマーズ』(もしくその原作のギルバート・アデア『聖なる子供たち』および、映画と同時に書き直された『ドリーマーズ』(池田栄一訳、白水社))はまさにここから始まり、5月革命へといたる時代をトリュフォーへのオマージュのような配置で作っていたのだよな、と思い出していた。思い出していておどろいた。そういえば『ドリーマーズ』にはそもそもレオーが出演しているのだった。
雨が降りそうな曇り空だった。