ラジオの生放送は1936年が最初。アレホ・カルペンティエールが小説の中で証言している。
夏の訪れとともに、初めてバイロイトの音楽祭がラジオ放送されるというニュースが伝わった。僕は上等な受信機を買い、その日の午後は暑かったので二人裸で並んで『トリスタンとイゾルデ』を聴いた。長い幕間には愛を交わし、音楽祭の終わり、「イゾルデの愛の死」の最後の和音の後にはもう一度抱き合っていた——それは音楽のゆったりとしたテンポに合わせて重ねられた最良の、最も長い抱擁だった……(『春の祭典』拙訳、87ページ)
この直後、主人公は同じラジオからスペイン内戦の勃発のニュースを聞くというのだから、それは36年の話なのだとわかる。
それから74年経って、やっとTV生中継なのだという。21日(土)。
しかしなあ、夜の10時過ぎに始まって翌朝の5時まで続くのだから、やはり長いな。さしてオペラ好きでもないし、ワグネリアンでもないぼくとしては、起きていられない。『ワルキューレ』がもう少し短ければな。
ワグナーのオペラに短さを求めるのは、木によりて魚を求む、というもの。19世紀とは長さの別名なのだ。たぶん。
ある授業でドン・フワンものの比較というのをやってみた。『セビーリャの色事師と石の招客』『ドン・ジュアン』(モリエール)『ドン・ジョヴァンニ』(モーツァルト)『ドン・フワン・テノーリオ』などだ。ひとことで言って、『ドン・フワン・テノーリオ』は長い。セリフが過剰だ。おそらく、19世紀的な「近代」「深さ」「内面」の概念というのは、言葉でもってなにもかも説明しつくしてしまおうというこの劇作の態度だ。セリフが長くてト書きが多い。
一方で、ワグナーのように長いものではないオペラ『ドン・ジョヴァンニ』は、ドン・ジョヴァンニ(ドン・フワン)のいまわの際の独白の長さが印象深い。韻文による悲劇の世俗化したジャンル(スタイナー風に言うなら)であるオペラがこうした心情吐露の歌の長さで人間の内面の深さ(時間の長さ)を開拓した。
授業ではそんな話をしたわけではないけど、そうなんだろうなと思う。