えっ?
と素っ頓狂な声を出してしまった。間抜けだ。しかしその方はすぐに立ち去り、もう廊下の向こうに見えなくなったころに、
あ、なるほど!
と思い至った。その人が何を言ったか、理解できた。そのひとの発した音の連なりが、そのときになって初めて意味を担った言語に変じたのだ。
あ、なるほど!
とすぐにまた思い至ったのは、もうその人の発話内容に関係ないことだった。
ぼくは外国語の聴き取りにあまり自信がない。第三者間で話されているときには問題ないのだが、突然、質問が自分に向けられたりすると、たちどころにわからなくなることがある。聞き返して初めて、実は大した質問を受けていなかったことがわかる。一番困るのは、聞き返して、言い直してもらわないうちに直前の発話内容がわかってしまい、相手の言い直しを遮って答えてしまったりすることがあるということだ。
ぼくはつまり、日本語といわず外国語といわず、自分に対して発された発話を理解するのが遅れてしまうという傾向を有する。日ごろ漠然と感じていたこの法則に、今日、確信が持てたという次第。
これは言語運用能力の問題というよりは、心理的な何かだと思うのだが、ぼくはこのことを説明する原理を持たない。ともかく、自分に対して発された言葉の理解が遅れる。それともこれはぼくのみに固有な現象ではないのだろうか? みんなそうなのだろうか?
ところで、思い立ってカメラにこんなものをつけてみた。ハンドストラップだ。ぐっと軽くコンパクトになったような気がする。下にある本の表紙のジャングル写真をこのカメラで撮ったのだと言いたくなる。ちなみに、下にある本は、
マリオ・バルガス=リョサ『緑の家』上下、木村榮一訳(岩波文庫、2010)
新潮の単行本および文庫本で絶版になっていたバルガス=リョサの代表作、復刊だ。めでたい。