2011年1月5日水曜日

同窓会というシステム

ともかく、1月2日には中学の同窓会があったという次第。出てきた。

既に死んだ者が3名(うち2名は12年前のときにはもう死んでいたが)。通風に苦しんでいる者や心臓をやって命拾いはしたものの、ニトログリセリンを手放せない者もいたが、これらはともかく、まだまだ例外。

だれもかれも髪が薄くなったり白くなったり。書類や写真を見るとき対象をだいぶ離したり眼を細めたり。ずいぶんと体が太くなった者もいたな。まあそんな経年劣化(というのは言い過ぎか?)を確認するのがこうした集まりの主な目的だ。

当時の憧れの的の女の子(ということにしておこう)2、3人から「ぜんぜん変わってないね」などと言われて、その場では有頂天になったぼくだったのだが、でも、考えてみたら、それも経年劣化の確認のひとつの言葉なのだろうと思う。「変わっていない」とは、期待値程度にしかおとろえていない、という意味だ。おっと、……でも、そんなことを書いたら、「いやいや、君だって変わっていない」と言ったぼくの立場が……

そういえば大学時代の同期の連中と比較的頻繁に会っていた時期があった。その連中とメーリングリストでやりとりしていたときに、誰かが温泉だかプールだかなんだか、そんな施設に行くことを提案した。別の誰か(女性)が、いまでは裸(水着?)など恥ずかしいのでダイエットしてからにしたいわ、と反論。それに対して第三の誰か(同じく女性)が、なんでそんなことを気にするのかわからない、私たちはみんながたどる道をたどって年を重ねてきたのであり、経年劣化があるのは当然なのだから、それを恥ずかしがることなどないではないか、と主張した。

ぼくはその彼女の言葉にとても感心したものだ。さすがはぼくが大学時代に憧れた女性(ということにしておこう)だけのことはある。さすがは御三家と呼ばれる女子校の出身だ(そうそう、前の記事に書いたアナウンサーになった彼女の高校の先輩に当たることになる)……って、なにが「さすが」なんだか……ともかくぼくは素直に感動した。

そう。ぼくたちはこうして少しずつもう若くはない自分に慣れていかなければならないし、現実に慣れていくのだろう。もう慣れているのかもしれない。それに、このくらいの年になると、若さはさほどの特権ではないということも知っているし、へんなたとえ話だけど、恋愛対象として見なす相手の年齢だって、上方向にシフトしているはずだ。それを確認するのが同窓会というシステムの目的。

でもなあ、それにしてもなあ、……知らずに会うと、絶対に年上だと思い込んでしまいそうな者がどれだけいたか。……まあ、つまり、大人になれば少々の年の差など気にすることはないということ。そのことの確認でもあるのだな。

さあ、12年後はもう赤いちゃんちゃんこだ。