結局、観た。トラン・アン・ユン監督『ノルウェイの森』(2010)
ディジタル録画の映像はクロースアップ(それこそが映画の本質だとブニュエルが言った技法)に、悲劇のための装置、感情とセンセーションの表現という以上の新たな次元を付与している。皮膚すれすれに寄っていくことから生じる官能性だ。小谷野敦がポルノ小説だと呼ぶような原作小説の官能性を、ほとんど性描写なしに(というか、有り体に言って、女優のヌードなしに)描写できたのだからたいしたものだ。
この映画のポジティヴに評価できる点のひとつは、いたずらにBGMで時代(1968-70年)の雰囲気を醸し出そうとしていないこと。家の雰囲気や車などの道具立てで勝負しようとしている。つまり、視覚に全面的に訴えようという意図。実際には風が草を揺らせるさざめきや突然切断されるBGMなど、聴覚にも工夫をこらしてはいるけれども、ともかく、BGMがうるさくない。表題の「ノルウェイの森」すら下手な自己主張をしない。これがメリット。
実に、道具立ては70年前後を再現していて、ぼくくらいの世代だとかろうじて懐かしいという思いがあるのだが、それでもカメラワークのところどころにフランス在住のこの監督ならではの特徴が見える。一番印象的なシーンは直子から施設に会いに来るようにとの手紙を受け取った渡辺が階段を駆け上るシーン。アパートの階段(主に螺旋階段)を人が昇るシーンをいくつものヨーロッパ映画に観たはずの観客の記憶を揺さぶる。
ポジティヴに評価できる点のもうひとつ。ぼくがとりわけ印象深く憶えている原作小説のシーンやセリフやプロットの多くが使われていないこと。これが大事なのだ。そんなものがへたに再現されていたりしたら、原作に思い入れを持つ者にとっては失望の種になる。
ネガティヴな評価をせざるを得ない点:いくつかの説明過多のシーンやカットがある。直子の幻覚とか、彼女の自殺を示すカットとか、渡辺に向かって叫ぶシーンとか。直子という多感な女性が、ずっと恋人とうまくセックスができなくて、彼の自殺はそのことのせいじゃないかと思っていたのに、その恋人の親友とは1回だけスムーズにできてしまって、そのことに戸惑っているところへ、その恋人の親友が優しいものだからますます混乱して精神の均衡を失い、鬱病になって自殺する、というのが直子のストーリーであることには間違いないのだが、そのことを叫んで主張させては、興ざめだ。
そしてもっともネガティヴな評価をすべき点は、永沢さんを演じる玉山鉄二の訛りだ。イントネーションではない。ここ20年ばかりの若い連中の、「い」の音の弛緩、ほとんど「え」に近くだらしなく開いてしまうあの発音だ。これは絶対にいただけない。永沢さんはそんな発音はしない。玉山鉄二が以後も俳優としてやっていこうと思うなら、あれは直さなければならない。興ざめ以前の問題。基礎訓練ができていないのだ。
終わって映画についてあれこれと話しているときに、緑がイチゴのショートケーキを買ってこいというから買ってきたら、ふん、もういらないわよ、と言って窓から投げ捨てられた。ごめんよ、緑、君がもうイチゴのショートケーキを欲しいと思わなくなるってことに思いいたらなかったぼくが馬鹿だった。ロバみたいに間抜けだった、と謝った。やれやれ。人生むずかしい。いや、緑とつき合うのは難しい。