2011年1月24日月曜日

IV 驚くことばかり

同僚の加藤雄二さんの授業の一環として、菊地成孔による講演が2週連続で外語であるらしい。授業の一環と言っても、収容人員501人のプロメテウス・ホールでの開催。学生たちにはぜひとも聴いて欲しいものだと思う。

かくいうぼくに、彼の存在を教えてくれたのは、彼の学校に通っていた5年ばかり前のぼくのゼミの教え子だったわけだが。

さて、続いての驚きはリカルド・ピグリアの「短編小説についての命題」IVはボルヘスの「死とコンパス」を例に挙げての解説。当該の短編を知らないと話がわからないと思うので、後に説明する。

IV
「死とコンパス」においては、話の始めに、ある商売人が1冊の本を売り出すことを決意するというのがある。その本の存在理由は、秘密のプロットを組み立てるのに必要不可欠であるということだ。レッド・シャルラッハのようなギャングがユダヤの複雑な伝統に精通し、レンロットに神秘的かつ哲学的罠をしかけるという筋を可能にするにはどうすればいいか? 作者ボルヘスが彼にその本を買ってあげて、自分で勉強しろと勧めたのだ。同時に彼はプロット1をうまく利用してこの機能を見せないようにしている。どういうことかというと、当該の本がまるでヤルモリンスキーの殺人によって、実に皮肉な偶然によって現れたかのように見せているというわけだ。「物好きな連中が、これに関係する本とあらばしかたあるまいと思って買ってしまうことに気づいた抜け目ない商売人が『ハシディム派の歴史』を出版した」。ひとつのプロットにおいて余談であるものが、もうひとつのプロットにおいては基本中の基本の要素となっている。この商売人の本というのは(「南部」における『千夜一夜物語』や「刀の形」における傷跡のように)曖昧な道具立ての一例だが、これが短編小説の語りのとても小さな機械を動かすのだ。
ボルヘスの「死とコンパス」『伝奇集』(鼓直訳、岩波文庫)所収の短編。ヤルモレンスキーというユダヤ神秘思想の研究家が殺された事件を、名探偵を自認するエリック・レンロットが推理する話。被害者の蔵書や書き残した言葉から、彼はユダヤ神秘教における神の名を巡る連続殺人だと考えたのだが、実は彼を陥れようと思ったギャング、レッド・シャルラッハの罠にかかってしまっていた、という話。レンロットがユダヤ教を巡る殺人だと考えていると新聞に口を滑らせたために、商売人がヤルモレンスキーの蔵書のひとつ『ハシディム派の歴史』を売り出してひと儲けしようとしたというのが、ピグリアの引用する一文の意味。この一文、既存の邦訳ではなく、ここでは柳原独自の翻訳を使った。

ピグリアのこの読みは示唆的だ。というのは、「死とコンパス」の冒頭には「ある商売人が1冊の本を売り出すことを決意する」という一文はないからだ。引用された文章は冒頭ではなく、もうだいぶ話が進んでからのもの。つまりこの伏線は「見せないように」仕組まれているのだ。代わりに引用の一文があることによって、私たち読者はあとづけでシャルラッハがこの本を買い、読み、「自分で勉強し」、レンロットの考えていることを知り、罠を張り巡らすことができるようになったのだとわかる仕組みになっている。でも、プロットの論理としてそれ以前に、この「商売人」が出版の計画を事前に立てていたという事実がなければならないとピグリアは指摘しているのだ。

うむ、蒙を啓いてくれて鋭敏だ。