今日はセンター試験前日のロックアウト日。休講だ。助かると言えば助かる。
が、毎年のことだが、何度でも言おう。センター試験など愚だ。無駄だ。
試験監督者は事前に講習を受けなければならない。毎年担当していても、そうだ。ぼくたち大学教員は裁量労働だから、そこに残業手当は発生しない。しかし、きっとこの講習にあたる入試課の職員には発生してることだろう。ちなみに、先日は教授会後、8時半までの講習であった。へとへとになった。
監督者の心得なる冊子だけならまだしも、リスニング試験の担当者にはその試験で使う機器の取り扱いを説明するDVDが配られた。50分ばかりのもので、これから見なければならない。これを焼き増しするのにさして金はかかってないとしても、制作費はかかっているはずだ。
このリスニングというのがまた曲者で、癒着を思わせるICレコーダーを使っての試験なのだが、これに対する注意事項が、これはもう冗談としか思えない気遣いようで、咳払いひとつできないありさま。噴飯ものだ。
センター試験の問題を作るのは委託された大学教員で、ぼくは幸い、試験科目の範囲外の人間なので、これに当たることはないが、当たった者たちは大変そうだ。大学の業務もやっていられない。だから授業の数は免除され、その代わり、非常勤の教員を補充するための予算は下りる。つまり、雇用が生まれる、と言えば聞こえはいいが、こんなものがなければ発生などしなかったはずの人件費が発生するということだ。国立大学の経費は削減しろとのプレッシャーがあるというのに。
経費削減というなら、これらの経費を削減することから始めたらどうかと、ぼくなどは思う。フランスのバカロレアみたいに退職した高校教員など(いや、もちろん、退職した大学教員でもいいが)を活用するほうがどれだけ高齢化社会に合致して合理的かと。
試験だって毎年のように雪の降るころではなく、秋口にでもやればいいのだ。
何よりも許せないのが、選択制。「ア・ラ・カルト方式」と入試課長は説明したのだった。最初、何と言っているのか理解できなかった。そう言っているのだろうと予測がついてからは耳を疑った。ア・ラ・カルトだと? ア・ラ・カルトなどと称することによって何が表現できるというのだ? 「自由選択」を「ア・ラ・カルト」と言い換えることの意義がどこにあるのだ? そんな浮ついた言語活動によってしか自らの行っていることを自己主張できない主体が行う事業に唯々諾々と従わなければならない受験生たちがどれだけ不幸か! 名称以前に、まだ選挙権(つまり、選択権)も持たないのが大半である受験生たちに選択の自由を認めて幻想を与える教育のどこに未来があるというのか?
受験生に過重負担というなら、国・数・英の3教科でもいい。他の教科を試験したいという大学があれば、独自にやればいいのだ。大学全入時代。以前のように競争のための試験などを課している場合ではない。基礎学力を見るためだけの簡単な試験で充分じゃないか。少なくとも一次試験としてのセンター試験は。