2009年12月27日日曜日

大学は終わらない

国際理解のための高校生講座、とかなんとかいうやつに協力しなければならず、大学に行った。このように、業務は続くのだ。こんなことをやっているということを、それにかかわらない人たちがどれだけ知っているだろう? 大学はまだ終わらないのだ。

ま、ぼくはちょっとした協力だけなので、大した労力も要らなかったのだが。

ニコラ・トゥオッツォ『今夜、列車は走る』(アルゼンチン、2003)なんてものを見て、それについて書き、原稿送付。

そして引き続き、ビセンテ・アランダ『carmen.カルメン』(スペイン、イタリア、イギリス、2003)など。

『カルメン』は版が多いので、こんなへんてこりんな邦題をつけて差異化しなければならないのね、とため息。ぼくはアランダは3作ばかり見てどれも辟易した記憶があるけれども、そんな彼の作品にあっては、これは良いと思う。

冒頭、カルメンの働く葉巻工場で、女たちに本を読んで聞かせる係の人物が出てくる。キューバの葉巻工場ではこうした読書係の者がいたことは、アルベルト・マンゲルが書いていたし、当時の絵などに明らか。スペインでも事情は同じだったのか、この細部が描かれていることに、ぼくは改めて気づいた。

単純労働者たちはこうして耳を楽しませながら仕事していた。ぼくの母は大島紬を織っている。ぼくが子供のころ、集落内に2つほどある「工場(こうば)」で仕事していた。その後「工場」は解体し、各自がそれぞれの家で織るようになった。母とて例外ではない。工場で働いている時からの習慣として、家に移ってからも、母はずっとラジオを聞きながら仕事をしていた。後に、テレビを見ながら仕事をするようになった。母や周囲の人間にとってのラジオは19世紀たばこ工場における読書人のひとつの変形なのだろう。

以前ここに購入したことを記した菊地成孔、大谷能生『アフロ・ディズニー』は、聴覚と視覚が独立に発達し、やがてそれが統合されることによって人間は世界観を得る、つまり大人になる、しかし、その統合には常にずれが含まれるのであり、視覚と聴覚とのこのずれによって成り立つ大人の社交の場が19世紀的・演劇的スペクタクルなのであり、そのずれが消失して子供的十全感に回帰した瞬間は映画におけるトーキーの到来なのだ、というような説を展開している。けっこう面白い。で、菊地が取り上げなかったひとつの「ずれ」の事実として、こうした、工場における読書人がいるのだろうな、などと考えながら見ていた。

で、ともかくアランダのこの『カルメン』は、メリメのドン・ホセやカルメンとの出会いも描かれていて、それだけに「原作に忠実」だとされるもの。ついでに原作など読んでみた。新潮文庫版はいまだに堀口大學訳だった。この堀口訳、なかなかいい。ここにも大學の永続性が確認される。