ルキーノ・ヴィスコンティ『家族の肖像』(イタリア、フランス、1974)を。
本当は晩年を思ったわけではない。授業に備えての話。
ぼくたちにとって『家族の肖像』というと、中島みゆきが「オールナイトニッポン」か何か、ともかくラジオの深夜番組で、「か~ぞくのしょーぞー!」と声張り上げて始めていた聴取者からのはがきのコーナーの名として認識された。その後、それがそのちょっと前に撮られたヴィスコンティの映画だと知ることになり、その映画を実際に見ることになるのだが、うーむ、……とうなったのはぼくばかりではないはずだ。とても惹きつけられる。だがいったい何に惹きつけられているのか自分でもわからない、そんな感じ。16、7のころの話だ。
ヘルムート・バーガー演じるコンラッドが、実は68年のごたごたに紛れて大学での美術史の勉強を断念したなんて細部は、実はまってく覚えていなかった。彼が爆弾でやられるその論理すらも、すっかり忘れていたということだ。
そして、ついに出来:
ガブリエル・ガルシア=マルケス『生きて、語り伝える』旦敬介訳(新潮社、2009)
新潮社のこのシリーズは巻末解説に訳者とは別の人を充てるというのがしきたりになっているのか? 旦さんではなく久野量一による解説がついている。
母は私に、家を売りにいくので一緒に来てくれ、と頼んだ。その朝、彼女は、一家が暮らしている遠くの町から遠路はるばるバランキーヤに出てきたのだが、どうすれば私が見つかるのか、まったく目星もついていなかった。あちらこちらで知り合いに尋ねてまわると、私のことはムンド書店か、その近所のカフェで捜すといい、と指示された。私が日に二回は、知り合いの物書きたちとおしゃべりするために立ち寄るところだった。母にそう教えた知りあいは、こう忠告した――「気をつけてお行きなさいよ、頭のおかしい連中ばかりだから」。(12ページ)
ほら、読みたくなるでしょう?