「ついに」というのは、松籟社の「創造するラテンアメリカ」のシリーズがついに配本開始という意味で、かつ、バジェホがついに翻訳されたという意味でもある。ご恵贈くださったので感謝もこめるなら、ご活躍著しい久野さんの意外なことに初の単独訳という意味でも「ついに」。
2003年のロムロ・ガジェーゴス賞受賞作品だ。2002年にぼくがベネズエラに行ったときに、酒場で会った批評家に最近では何か面白いのあったかい、と訊いたところ真っ先に名が挙がったのがこの作品。エイズで死にかけているホモセクシュアルの弟に会いに久しぶりにメデジンに戻ってきた兄の独白。作品中の弟の名が作者の実の弟と同名で、表紙にもフェルナンドとその弟の幼いころの写真が使われていて、自伝的な装いなのだ。泣ける。
来年度、これら新しい作品について授業で取り扱う予定なので、どこをどう扱うか、これからじっくり吟味したいところ。しかし、誰もが目にする書き出しは、すばらしい。
ドアが開くなり挨拶もなしに飛び込んで階段を駆けあがり、二階のフロアを横切って突き当たりの部屋に押し入るとベッドにくず折れてそのままぴくりともしなかった。思うに、あいつはいずれ身投げする死の崖っぷちまで来て自分から解放され、久しぶりに子供のころみたいに安らかな日を過ごしたんだ。(5ページ)
訳者久野量一は、「あとがき」でコロンビアの作家にとって避けては通れないガルシア=マルケスとの対比を持ち出しているが、この書き出しなど、ガボと比べて豊かな比較ができそうだ。ガルシア=マルケスは最初から寝そべっている人間に死のイメージが去来する書き出しをいくつかの作品で用いているが、これはどうだ! 水平と斜め上への移動があり、暴力的な伏臥があり、しかる後に、垂直方向への落下のイメージがあって他者の死が重なる。静的なガルシア=マルケスの死とみごとに対比を描きながら、かつ、読点の少ないリズムある文章が読者に心地よく響く。
読点の少ないのは、翻訳の勝利。原文はむしろコンマが多く、それが逆にリズムを作っているのだが、翻訳は逆にすることで日本語のリズムを作っている。
いいね。
そしてまたこの小説。汚い言葉遣いが切ないのだな。久野によれば、「人が何かを憎むこと、否定することができるのは、その対象を限りないまでに愛した経験があるから」(「あとがき」、208)とのこと。