先日、ゼミでちょっとうろ覚えで正確でないままに挙げた書が、幾人かの学生の興味を惹いたらしいので、確認。
ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』大浦康介訳(筑摩書房、2008)
そうそう。バイヤール。で、こんなタイトルであった。
本気でタイトルどおりのマニュアルだと思われてもこまるのだが、そういうマニュアルのふりして、小説や映画の中の登場人物が読んでもいない本についてコメントする場面を分析し、本は読まなくても大丈夫、と言う本だ。つまり、立派な文学作品分析なのだ。
で、おそらく、この本の最大の主張は、本は「複雑な言説状況」の「対象というより結果にすぎない」(161)ということと、本について語ること、つまり書くことは、そこに第三者(他者)が介入してくる行為なので、「この第三者の存在が読書行為にも変化を及ぼし、その展開を構造化するのである」(142)ということ。
いったんどんな本でも一種の言説の網の目に捕らえられてしまえば、読者としてはその網の目を捉えていれば読まなくても読んだふりはできる。そして、事実、そのように本は流通する(だから書いた本人は、違う、違うぞ、俺はそんなことを言おうとしたのじゃない、と叫ぶ)。もし「読む」という行為が他の人々を驚かせるようなものになり得るとすれば、ある特定のテクストが捉えられている言説の網の目を移し替えたり、そこに亀裂を入れたりすることによってのみなのだろう。
そしてそんな読みができるとすれば、反語的だが、「読む」という行為とは相容れない、それを変質せざるを得ない書く行為によってのみだ。
読んでばかりいると書けない。書くためには読めない。読めないけど読んで書くしかない。たくさん書く人がたくさん読む人であるのは、そういう道理なのだよな。
ボラーニョとベンヤミンなど読まなくても、ボラーニョのメキシコ市記述におけるフラヌール的な要素についてはいくらでも云々できる。が、それがうまくできるだけでは、つまらなくなっていく。実はボラーニョのメキシコ市がそんなものですらないということを示したなら、ぼくは、ひょっとしたら、ボラーニョやらベンヤミンやらボードレールを読んだと言える……のだろうな。そしてアルフォンソ・レイェスを。
立教での講演を終え、ボラーニョとアルフォンソ・レイェスが近づく様子が見えたように思ったので、今度の土曜日はそんな話を京都でしてこようと思う。