先日告知の立教での講演だが、そこでトラテロルコのことも話そうと思う。68年10月のトラテロルコ事件のことにも触れないわけにはいかない。するとそれについて書かれた文物も気になるわけだが、やはり先日紹介した安藤哲行『現代ラテンアメリカ文学併走』によれば、トラテロルコについて書かれた小説は、ルイス・ゴンサレス・アルバ『日々と歳月』(71)、スポータ『広場』(71)、レネ・アビレス=ファビラ『官邸の深い孤独』(71)、マリア・ルイサ・メンドーサ『彼と、わたしと、わたしたち三人と』(71)、ゴンサロ・マルトレ『透明のシンボル』(78)(以上が直接に扱ったもの)、フェルナンド・デル・パソ『メキシコのパリヌーロ』(77)、ホルヘ・アギラル・モーラ『きみと離れて死んだら』(79)、アルトゥーロ・アスエラ『沈黙のデモ』(79)(間接的な言及、あるいは背景)とあるのだそうだ(18-19ページ)。
まいったな、ほとんど読んでいないな。本当に不勉強を恥じるのみだ。
などと考えていたら、『群像』12月号にはエナ・ルシーア・ポルテラ「ハリケーン」(83-93)なんて短編が久野量一訳で出ていた。岸本佐知子によるジョージ・ソンダーズ「赤いリボン」(72-82)の隣に。こちらも面白そうだが、ともかく、ポルテラ。
ハリケーン〈ミシェル〉の上陸する夜に家を出た「わたし」が事故に遭って死にかけるという短編。そしてその間、家では置き去りにした弟がハリケーンの犠牲になって死ぬ。親は亡命してUSAにいるし、兄は何年か前に殺されている。
ハリケーンの名前からビートルズの曲を思い出したり、「スティーヴン・キングでさえ、これほど身の毛のよだつ状況を描き出すことはできないにちがいない」とか、「でも弟にはアリョーシャ・カラマーゾフのような一面があって、それがはっきり言って耐えられなかった」(85ページ)という、比較的オーソドックスな、引用に基づく世界を作っていったかと思うと、弟がプロテスタントに入信したという話をしながら、「入信したのは福音派だったと思う。当たっているかどうかはわからないけれど。ルター派だったかもしれないし、アナバプティスト派だったかもしれないし、ペンテコステ派だったかもしれない……本当のところは知らない」(87)といった判断中止の描写をするところなど、実に面白い。今風だな、と漠然と思う。それを「今風」と言っていいのかどうかわからないけれども。ボラーニョとかアイラとか、そんな気もするし、そうでないような気もする。本当のところはよくわからない。
まったく知らない作家だった。こうした新顔の紹介を受けると、自らの不勉強を恥じるのみだな……と、2回目か。不勉強なのかどうかもわからないけど。