2011年11月23日水曜日

42年後の恋人

この9月にラテンビート映画際で黒木和雄『キューバの恋人』(1968)というのを見た。実はこの映画の撮影から40数年経って、マリアン・ガルシア=アランが『アキラの恋人』(2010)というドキュメンタリー映画を撮っている。当時のキューバ側の関係者にインタビューした作品だ。その編集フィルムを見せてもらった。実に興味深い。

『キューバの恋人』製作に関係する証言(主役の女優は最初、デイシー・グラナドスが考えられていたとか、彼女が実は、結局プロの女優ではないオブドゥリア・プラセンシアがやった役の吹き替えをやっているのだとか、マグロ漁でキューバに滞在して悪さしていく日本人船乗りがたくさんいたのだとか……)もさることながら、黒木の映画を迎え入れることになるキューバの映画事情を、当時の関係者や批評家が説明するくだりなどは、本当に貴重だと思う。

キューバでは1961年に短編記録映画 PM の上映禁止という出来事が起こり、映画芸術機関ICAICにいたギジェルモ・カブレラ=インファンテが辞職するという騒ぎがあった。カストロが知識人を集めて「革命内にとどまるならすべてが許される。外に出たら何も許されない」との演説をすることになった決定的な事件だ。

その後に68年が来る。PM事件があったけれども、キューバ国内ではヌーヴェル・ヴァーグだのブラジルのシネマ・ノーヴォだのが受容されていた。62年に社会主義路線を取ることを正式表明し、10月危機(いわゆるキューバ危機)などを経験して東西冷戦構造の真っ只中に引きずり込まれたキューバではあるけれども、しかし、たとえばチェコ侵攻に対してはカストロが批判するなどして、ソ連との関係も独自さを保っていた。これがソ連にさらに接近するのは71年くらいのこと(この年、悪名高いパデーリャ事件が起きる。キューバはCOMECONのへの参加に向かっていた)。つまりキューバはずっと難しい時期にあったのだ。この難しい時期、いわば第三の道として日本の映画を取り入れ、学ぼうという動きがあったらしい。だから『座頭市』などが受け入れられ、大きな人気を博すことになったとのこと。そんな雰囲気が、関係者たちによって示唆されているのが、『アキラの恋人』だ。そしてこの関係者たちは40数年経ってはじめて『キューバの恋人』を見せられ、口を揃えて当時のキューバを正直に映し出すドキュメンタリーのようだ、と評価している。