2010年9月22日水曜日

空虚なイメージなどではなく、一個の実在なのだ。

もう日付が変わったので、昨日のことになるが、火曜日は法政の後期初日。ゼミの連中とバーベキューをしてきた。法政多摩キャンパスにはバーベキュー施設が2箇所にあるのだ。そのうちのひとつで。

で、帰りの電車で読み終えたのが、

奥泉光『シューマンの指』(講談社、2010)

ピアノの鍵盤に血のついた模様の装丁が素晴らしい1冊。

一旦は音大に入ったものの、ピアニストの夢を断念し、医学部に入り直して今は医者をしている里橋優が、高校時代の友人からの手紙をきっかけに、30年前の天才少年ピアニスト永嶺修人とのつき合いを想起し、彼の周りに起こった殺人事件を回顧する手記を書くというもの。

いわゆる謎解きを主眼とするミステリではない。犯人は最初から直感されている。この小説の真骨頂は、ミステリではない殺人事件の謎解きにリアリティを与える心理と知覚と記憶との不確かさを巡る描写だ。長男を青年時代の自分自身が殺していた(かもしれない)という小説で芥川賞を獲ったこの作家の、さすがの手並みだ。ちなみにこの記事のタイトルは小説本文からの引用(294ページ)。

なんといっても小説内を埋め尽くすシューマンに関する蘊蓄や演奏批評も素晴らしく、フルート奏者でもある作家の音楽家への愛が伝わってくる。最後の数ページでどんでん返しがあり、最後まで残された謎にも解決がつけられるというしかけ。電車が最寄りの駅に着いてからも、数分間プラットフォームのベンチに座り込んで読み終えてしまった。