これが文庫化だものな。感慨深いな。
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー——資本主義と分裂症 上』宇野邦一、小沢秋広、田中敏彦、宮林寛、守中高明訳(河出文庫、2010)
ぼくは世代の上からはしかたがないのだが、ドゥルーズ(+ガタリ)を浅田彰の明快で鋭敏な紹介に教えてもらった。この『千のプラトー』の序文となる「リゾーム」が、単独で出されたときのヴァージョンが雑誌『エピステーメー』の特別版として豊崎光一訳で出ていたので、それを古本屋で見つけて買い、「われわれは『アンチ・エディプス』を二人で書いた。二人それぞれが幾人かであったから、それだけでもう多勢になっていたわけだ」(『エピステーメー』版)という書き出しから、「なんだこれは! かっこいい!」と叫び、「速くあれ、たとえその場を動かぬときでも!」という終わり近くの文章には「動かない者が一番速いんだよ、そうだよ!」と叫び返して興奮したりした。「器官なき身体」(アルトー)とか「戦争機械」とかいった、この書に由来する概念を駆使する人(中沢新一とかだな)の文章などを読みながら二次的に情報を得、そのうち、ミニュイのフランス語版を買い、フランス語の練習にと辞書を片手に断片的に読んだりしたものだ。『カフカ——マイナー文学のために』の翻訳から「言語の脱領土化」の概念を教えてもらい、彼らの書いていることが、それを起点にわかったような気になったりした。その後、法政時代にかかわったある人事案件のために『差異と反復』なんてのの邦訳も必死で読んだ。そんなわけで、本当に理解しているとは思わないが、ドゥルーズまたはドゥルーズ+ガタリには苦労させられた記憶がある。既にいくつものドゥルーズおよびドゥルーズ+ガタリの著作を文庫化してきた河出が、今、この大作を文庫化したというわけだ。めでたい。
フランス語で読んだときの印象が強く残っている箇所のひとつが、「学校の女性教師は、文法や計算の規則を教えるとき、何か情報を与えるというわけではなく、また生徒に質問するときも、生徒から情報を手に入れるわけではない。彼女は「記号へと導き」ensigner、指図を与え、命令するのだ」(165ページ)という4章の最初の文。ensignerという語に頭を抱えた。enseignerでないのか! が、これはしばらくして、妙に感心することになった。
さて、今日、もうひとつ買ったのが、『文學界』10月号。田村さと子が「ガルシア=マルケスを訪ねて——ラテンアメリカ文学の旅」を寄稿している。かつベネズエラのフェドーシ・サンタエーリャ「ブルンダンガの絵葉書」、「猫たちの愉楽」が尾河直哉の手によって訳されている。中島京子監修「来るべき世界の作家たち」特集の一環として。