以前観た『シルビアのいる街で』のことを、知り合いは「すごいイケメンがすごい美人さんをストーキングする話」と聞いたと言っていたが、これはさしずめ、むくつけきことこの上ない男がかわいい女の子をストーキングする話。何かと言えば、アドリアン・ビニエス『大男の秘め事』(アルゼンチン、ウルグアイ、ドイツ、オランダ、2009)。ラテンビート映画祭(新宿バルト9)にて。
背が高く恰幅もいいくせに同僚からはJaritaと、いわゆる縮小辞つきで、しかも、-a で終わるのだから女の子を思わせる愛称で呼ばれるハラ(Jarra——ジョッキ——のことではない。-r-はひとつだ)(オラシオ・カマンドゥレ)はモンテビデオ(ウルグアイ)の大型スーパーの警備員。監視カメラで店内のゴタゴタを盗み見て楽しんでいる。ある日、ヘマをして商品管理の上司にお目玉を食らうフリア(レオノール・スバルカス)に恋をして、彼女のストーキングを始める、という話。
監視カメラのストーリーへの絡めかたが実にうまい。小説は活字よりも古いメディアである手紙や日記を裡に取り込む。神の視点を目指した小説に比して手紙や日記は一人称で語られるのが自然だから、いきおい、視界が限られ、見えないもの、語られないことが出てくる。その見えないものや語られないことが謎を産み、嫉妬を掻き立てる。だから物語が発動し、心理が立ち上がる。これと同様に映画も、自分より古いメディアである鏡を裡に取り込んで視覚の迷宮を作る、というと加藤幹郎(『鏡の迷宮』)の指摘だ。鏡よりは新しいかもしれないが、原理的に決して映画より新しいものではないはずの監視カメラが映画に取り込まれたとき、やはり死角ができ、その見えない場所がハラの嫉妬を産み、物語を発動させる。フリアが仲良くしているらしい食肉係の男と、監視カメラの眼の届かないところにしけ込んだとき、ハラはある行動を起こし、ストーキング行為にもあらたな展開が生まれる。ハラが逆に監視カメラに捉えられ、フリアに見られる存在になったときに、またひとつの展開を引き起こして物語が集結に向かう。
今年のラテンビート映画祭、他の前評判の派手さに隠れて目立たないと思われた(あるいはそう思っていたのはぼくだけか?)『大男の秘め事』、なかなかどうして、佳作だ。ベルリンの銀熊賞は伊達ではない。
静岡のホテルで残り少ない席をネット予約し、東京に戻ってすぐに新宿に向かって観たのだった。
ちなみに、これが今回お世話になった静岡大学人文学部(部分)