2010年9月20日月曜日

家族の物語

以前、柴田元幸さんをぼくの関係する授業にお招きして、お話しいただいたとき、かつてアメリカ文学には家族が不在だったのに、ここ10年(だったっけ?)ばかりは家族の話ばかりが書かれている、というようなことをおっしゃっていた。映画はどうなんだろう? でもこの人の場合、「アメリカ映画」といえるのだろうか? だいたい『ゴッドファーザー』の人だ。家族が不在も何も、一族郎党全部ひっくるめてって話じゃないか。『ランブルフィッシュ』なんて兄弟ものもあった。だからまあ、そんな一般論で考えない方がいいんだろうな。

フランシス・フォード・コッポラ『テトロ』(アメリカ、イタリア、スペイン、アルゼンチン、2009) 昨日に引き続き、ラテンビート映画祭にて。

ニューヨークにある親の家を出てブエノスアイレスにやってきて、小説を書こうとして挫折、精神を病み、何度か事故にもあってふさぎ込んで暮らすアンジェロことテトロ(ヴィンセント・ギャロ)のもとに、年の離れた腹違いの弟のベンジャミン(オールデン・エーレンライク)が訪ねてくる。どうやら詩人を目指しているこの弟、兄に捨てられたと思っているようで、最初は兄弟の確執と愛の話かと思わせる。ましてやテトロの書いている小説は、彼の父親とその兄の芸術面におけるライヴァル関係と確執を題材としているようで、2つの世代にまたがったパラレルな兄弟の話が展開するのかとの予想も成り立つ。しかし、実際にはそれが父殺しの話だったのだということがわかってくる、というストーリー。

大抵が白黒で展開されるストーリーに、たまに挟まるカラーのシーンは、テトロの回想かと思ったら、実は彼の書いていた小説の内容(事実に基づくものではあるらしいが)。テトロの父は、彼は一緒に暮らすミランダ(マリベル・ベルドゥー)には隠していたけれども、1901年にイタリアからアルゼンチンに移住した家族の子で、エーリヒ・クライバーに目をかけられて大成した世界的な指揮者カルロ・テトロチーニだということが、白黒のシーンとカラーのシーン両面からの説明で次第にわかるようになってくる。左右逆転した鏡像文字で書いていたテトロの小説の草稿をベンジャミンが書き継ぎ、書かれないままだった結末も自分で見つけ出すのだが、しかし、そうではない本当の事実としての結末がクライマックスで兄から弟に告げられる。観ているうちに観客の誰もが予想するような結末だが、この展開は面白くて飽きない。

父親殺しの話で、クライマックスにはアローンという批評家(カルメン・マウラ)の主催する文学賞の発表会があるのだが、この賞、日本語字幕では「反逆文学賞」と訳されていた。Premio parricida(父殺し賞)なのだけどな。不自然だと思ったのだろうか? でもそもそも、影響力絶大なる批評家のペンネームがAloneなんて設定は、不自然といえば不自然(この不自然さはボラーニョを思わせる。『チリ夜想曲』のフェアウェルだ)。それを思えば、「父殺し賞」で良かったのではないか? ただし、セリフのスペイン語のパートには英語字幕がついていて、そこにはParricide Prizeと明記されていたので、わかるといえばわかる。(今、『リーダーズ英和辞典』を引いたら、parricideの項に「反逆者」という訳語があった。なるほど、スペイン語の辞書にはでていないはずのこの訳語、こうしてできたのだな)

ところで、コッポラってこんなにうまい人だっけ? と感心するシーンがいくつも。サービス精神もたっぷりで、巨匠はさすがに巨匠なのだと、納得(近年は娘の話題ばかりなもので、忘れていたのだな)。テトロのアパートで兄弟が口論するところは映画館内であることも忘れて唸りそうになった。終わって拍手が起こったのもうなづける話。

余談だが、ヴィンセント・ギャロ。ギャロなんてカタカナで書くとわからないのだが、Galloじゃないか。つまり鶏だ。オンドリだ。そう考えてひとりほくそ笑んだ。

もうひとつ余談。ロドリーゴ・デ・ラ・セルナが出ていた。『モーターサイクル・ダイアリーズ』でゲバラと一緒に旅するアルベルト・グラナドの役を演じていた俳優だ。

最後の余談。テトロがベンジャミンを見舞った際に持っていった差し入れは、本3冊。うち1冊は架空の人物(映画内の「アローン」)によって書かれたもの。残りの2冊の著者は、それぞれ、レオン・フェリーペとロベルト・ボラーニョ。