昨日紹介した田村さと子などを読んでいると、時々思うことがある。ぼくはこうして生きた作家と関わりを持ったことはないな、と。時々、外国ものの翻訳などで、「訳者あとがき」にわからない箇所を著者に質問した、などという記述がみられるが、そんなことも書いたためしがない。書けたためしがない。
ぼくがこれまでに翻訳を出した作家は、死んだ人ばかりだった。古い順に言うと、ホセ・マルティ:1895年に死んでいる。アレホ・カルペンティエール:1980年に死んだ。ぼくがカルペンティエールを読み始めたのは彼が死んで4年後のことだ。フィデル・カストロ:これは作家ではないし、生きているけど、何と言うか、そもそもアンタッチャブルだ。ロベルト・ボラーニョ:2003年に死んだ。先日書いた、訳したっきり本になっていない小説の作者はベニート・ペレス=ガルドス:1912年没。
ロベルト・ゴンサーレス=エチェバリーアというのは、Alejo Carpentier: The Pilgrim at Home という研究書を書いたイェール大学の先生で、その彼はこの本の第2版前書きにカルペンティエールとのつき合いを披瀝した後で、批評家は対象となる作家とはあまりべたべたし過ぎても行けない、ある程度距離を置かねば、というようなことを書いていた。
キューバ革命を逃げた家族の子供であるゴンサーレス=エチェバリーアと革命内に危うくも留まり続けたカルペンティエールの間には、ときおり、革命が介在して、うまく会えないことも多々あった、というような事情なのだが、それは措くとしても、まあそのとおりだろうなとは思う。ぼくはそもそも人見知りする人間だから、何かの仕事の都合で知遇を得ることがあったとしても、わざわざ出かけていって会おうとは思わないというのが本当のところでもある。だから本当はガボに会ったと言われても、それほどうらやましくはないのだ。基本的には。
作家ではないが、たとえばぼくは、愛してやまないシネアスト、ビクトル・エリセが『マルメロの陽光』のプロモーションで来日したとき(1993)に、1週間ほど通訳として張り付いた経験があり、そのときに名刺などもいただき、別れ際にはマドリードに来たらいつでも寄ってくれ、と言われたこともある。この1週間はぼくの人生の中で最も幸せな日々だったと言ってもいいのだけど、だからといって本当にマドリードに行った時に彼を頼っていったわけではないし、その気も起きなかった。そういう人間なのだな、ぼくは。何かの仕事の関わりで会えるならそれはそれでいい。でもその関係をがんばって保つ必要はない。関わりあいのあった時間が幸せであればいい。
おっと、そういえば今、ぼくは初めて生きた作家の小説を翻訳しているのだった。わからない箇所も少なからずある。著者に質問すべきかな? そのことを「あとがき」に書くべきかな。
それ以前に、そういえば、あるキューバの作家が日本にやって来て、その人と仕事をするのであった。10月20日(水)の話。「キューバ文化の日」という催しがセルバンテス文化センターである。その後ふたりの友情をあたため、はぐくみ、どちらかが死ぬまで持続させるべきかな? 作家というのは、あの『アディオス、ヘミングウェイ』の著者だ。