昨日のこと。カルロス・サウラ『ドン・ジョヴァンニ――天才劇作家とモーツァルトの出会い』(イタリア、スペイン、2009)ロレンツォ・バルドゥッツィ他
邦題副題(原題はIo, don Giovanni)に謳うように、天才劇作家、すなわち『ドン・ジョヴァンニ』(や『フィガロの結婚』)のロレンツォ・ダ・ポンテに焦点を当てたもの。
史実かどうかは知らないが、カザノヴァの友人で、カザノヴァや当のドン・ジョヴァンニ/ドン・フワンもかくやというほどのプレイボーイ(にして改宗ユダヤ人、キリスト教聖職者、かつフリーメイソン)のダ・ポンテが、ジェノヴァを追放され、カザノヴァの計らいでサリエリの面識を得、当然、その後モーツァルトとも知り合い、オペラを作っていく過程で、あこがれの思い姫アンネッタとの恋愛を成就させるべく努力するというもの。ドン・ジョヴァンニの地獄落ちの終結部を、ドン・フワンであった自らを葬るものとして書いた、という解釈。悪魔払いとしての書くこと。
スペイン人カルロス・サウラが、あたかもドン・フワン劇の原型としてのティルソ・デ・モリーナ『セビーリャの色事師と石の招客』のストーリーがなかったかのように(というのは、実際のところ、この地獄落ちはティルソ版から連綿と続く伝統)ダ・ポンテにストーリーを考えさせていることを、今は非難することはない。これは『カルメン』や『タンゴ』などでサウラが採った、舞台芸術作品とそれを作る者たちのストーリーを錯綜させるという物語の新たな一例だ。
ヴェネチアやウイーンの街をセットで再現してるのだが、そのセットというのが書き割りで、つまり映画そのものを舞台作品のようにしようとの意図が見えるかと思いきや、映画内オペラの『ドン・ジョヴァンニ』、地獄落ちのシーンでは当時の舞台設備では絶対に表現し得ない背景を作っていて、舞台と外部、フィクションと現実の境目がわからなくなるという映画の内容を補強していた。
ガーゼのカーテンを使って向こうとこちらに違う世界を作り出すシーンのあり方などは『ゴヤ』を思い出させる。撮影はその『ゴヤ』や『タンゴ』のヴィトリオ・ストラーロ。
文化村ル・シネマのサービスデイ、入場料1000円の日で、満員。隣に3人組みできていた年配の女性のひとりが寝息を立てていた。