2010年5月23日日曜日

アルムニ、とラテン語読みしてはいけない

 土曜日は大学でホームカミングデイというものがあった。卒業生たちがカムホームする日だ。ぼくは卒業生としてではなく、ぼくの属するアラムナイ事業部というものの委員として、つまり、お迎えする側として、出た。出たといっても、会場に突っ立っているだけの話。アラムナイというのは、alumni、つまり生徒の集団だが、要するに同窓会みたいなものだ。一応、東京外語会という同窓会組織はあるのだけど、それとは別個、同窓生のネットワークを大学の事業に活かしていこうという部署。そこが、同窓会の総会とは別に、卒業生たちを母校に呼び寄せようというのが、ホームカミングデイ。結局のところ、こういう集まりに来る人は多くは同窓会活動に熱心な人と重複するのだけれども。でもともかく、別の催し。


 501人収容のホール、プロメテウスを含む多文化交流施設アゴラ・グローバルのお披露目の会みたいなものだ、今回は。

 散会後、職員の方にクレームをつけている人がいた。関わり合いになりたくなかったので、遠巻きにしていたのだが、聞こえてくることから判断するに、会の進行に不手際があったとか、学長の講演が予定の時間を超過したこととか、そんなことにケチをつけていたようだ。

 悪意に解すれば、クレーマーだ。この手の人物は、外語の卒業生でなくとも必ずいる。善意に解すれば、このような形でしか対象に愛情を表明できない人物がいる。

 今朝の『朝日新聞』に遠藤周作の未発表の小説草稿が遠藤周作文学館で確認されたという記事が出ていた(東京第14版、36面)。若いころのもので、フランスの日本人留学生がサド侯爵研究をする話と、対独レジスタンスで拷問を受ける人物の話が平行して語られているのだとか。「サディズムや拷問を通して、初期の遠藤文学のテーマである人間の『悪』を見つめている」と「同館学芸員の池田静香さん」は述べているそうだ。そうなのか?

 そういえば、以前、本屋で立ち読みした沼正三の自伝で、遠藤周作がマゾヒストたる沼の本性をたちどころに見抜き、なにやら怪しげな女性に紹介したというエピソードを読んだな、と思い出した。沼も彼の本性を見抜いて会いに行ったわけだが。

 『朝日』ではなく、こちらは『日経』に、『野生の探偵たち』の書評が掲載された。野谷文昭さん評。「ページを埋め尽くさんばかりに卑語・猥語を羅列する過剰さは、言葉の実験や遊びともなり、ユーモアを生むとともに詩的ですらある。しかもそこに多くの文学が参照されていることが厚みを与えると同時に、一種の昇華をもたらすのだ。メキシコから出発し、新旧大陸を股にかけ、学生運動弾圧事件やキューバの亡命作家の生涯さえも包摂しながら続く、危険で魅力的な旅の切なさと豊穣さに、ため息が出る」。

 うまいなあ、このまとめ。ため息が出る。いや、ありがたい。ちなみに、この方も外語のアラムナイ、のひとり。