2010年5月2日日曜日

昨日書いたことを今日も書いてみる

朝から軽い吐き気を抱えながら生きていた。風邪か? それとも実存の空虚を前にしためまいか?


運動不足だろうと仮定してみた。

散歩に出た。

近所の本屋で買った本:

ジル・ドゥルーズ『批評と臨床』守中高明・谷昌親訳(河出文庫、2010)

菊地成孔+大谷能生『憂鬱と官能を教えた学校――【バークリー・メソッド】によって俯瞰される20世紀商業音楽史』上下(河出文庫、2010)

いずれも単行本発売時には買っていなかった一冊。ウラゲツ☆ブログではGW明けだと書いてあったのだが、既に近所の書店にあったので。ここでGW明けまで待つ必要もないだろうと思って買った。

そういえば昨夜、「スコラ・坂本龍一・音楽の学校」(NHK教育)がジャズの回に突入、坂本や山下洋輔とともに大谷能生が出て高校生相手にブルーノートやコール・アンド・リスポンスの話を、実践を交えながらしていた。いいなあ、こういうの、と嫉妬を交えながら見ていた。ぼくもいつの日かカルペンティエール『キューバの音楽』を楽器を手に実践しながら解説する、なんて授業でもやりたいな。

でもピアノもサックスもできないものな。

で、まあともかく、後者のこの魅力的なタイトル! バークリー音楽学校のメソッドから振り返って平均律との格闘であった音楽を見直してみようという希有壮大な試み。

でも実は、買わずに立ち読みだけした本も妙に印象に残っていたりする。たとえば、これだ。


白石嘉治『不毛なる教養』(青土社、2010)

要するに国際人権条約13条、教育の無償化に関する条項をマダガスカルとともに批准を保留している野蛮な日本の現状下(世界の趨勢に逆行)、大学教育にネオリベラル的市場原理至上主義の価値観が導入され(世界の趨勢に乗る)、古くからある上位/下位、実学/虚学、専門/教養の2分法の下位項目が危機にさらされている現状に憤り、大学は無償であるべきであり、無償制とは虚学の存在を保証するものなのだ、と説いていた。

大学の無償化。これは常識。高校の無償化などと言わず、大学もやっていただきたいもの。やらなければ民主党政権は何もやったことにならない。

ただし、このネオリベラル的市場原理至上主義の価値観というのは、それを既に内面化している学生や、内面化まではしていないものの、そういった趨勢になんとなくプレッシャーを感じている学生なども多くいる現状を加味すれば、きっと議論が煩雑になってくるのだろうなと思う。それでもなお、大学の無償化は保証されなければならない。

ぼくが戦慄とともに思い出す光景がある。ある委員会である教育方針についての提言を作成しなければならなかった。その提言の素案に「欧米に比べて授業料が安価であるという日本の大学の利点を」云々と書いてあった。ちょっと待て、とぼくは言った。いったいここにいう「欧米」とはどこのことなのだ、ぼくの知る限り欧でも米でも、授業料なんて、少なくとも国立なら限りなくただに近いところが多い、人権条約云々を批准していない数少ない国のひとつである日本の大学がこんなこと言えるか、確認しろ、と。文科省の役人であるなんとか課課長が恥ずかしそうに反応したと思ったのはぼくの思い違いではあるまい。

後でわかったことは、その書類を作成したのはイギリスに留学経験を持つ人物であったということ。

その次に提出された「提言」素案、推敲版からは、しかし、その文言は削除されていなかった。泣きたくなった。どうせ実効性を欠く「提言」だ。作るために作っている書類だ。どうにでもなれ、とさじを投げた。その後その素案がどう書き直されたか、もう知らない。

ぼくもぼくなりに絶望している。