2010年5月31日月曜日

過去に驚かされる

 白水社エクス・リブリスのブログに掲載された、4月23日(金)の『野生の探偵たち』紹介。このスナップは、おそらく、御大N氏が、両端の2人に「君たち、これ、調べてないでしょ? だめだよ」と言ったあたり。


 ぼくはこの日、おおよそ、次のような話をした。

 私は訳者を代表して「あとがき」を書いた。あとがきでは、1、この小説が疑似ドキュメンタリーの手法を用いていること、2、さまざまなテクストとの関係で面白みを作り出している小説であること、という2点から『野生の探偵たち』の面白さを説明した。ここでは、同じ論点の違う例を出して話す。

 J・M・クッツェーの最新作、Summertime(2009)というのが、やはりインタビューを取り入れた疑似ドキュメンタリーの形式を取り込んでいる。この2つの例だけでこんなこと言うのは早計だが、ひょっとして、この形式は流行なのかも。一方で、この2つを読み比べるとそれぞれの特異さ、面白さがわかるかも。ざっとクッツェーの小説に目を通して思うことは、ボラーニョの方がはるかに奔放で放恣、謎が多く、魅力的だということ。

 インタビュー形式ということにとらわれなければ、疑似ドキュメンタリーと呼べそうな小説は他にもある。たとえばハビエル・セルカス『サラミスの兵士』。ここでは作者と同じ名の主人公が、ボラーニョと知り合いさえする。こうした傾向は興味深い。

 『野生の探偵たち』の面白さの第2点。他のテクストとの関係ということ。第一部でエルネスト・サン・エピファニオという人物が文学には異性愛文学と同性愛文学が存在する、という説を披露する箇所がある。詩は同性愛文学だと。そして、「詩の大海にはいくつかの潮流が見て取れる。ホモ、おかま、ヘンタイ、痴カマ、隠れホモ、フェアリー、ニンフ、オネエ。だが、いちばん大きな潮流はホモとおかまだ。たとえば、ウォルト・ホイットマンはホモ詩人だ。パブロ・ネルーダはおかま詩人だ」(上巻118ページ)等々、等々。

 これを読んで思い出されるのは、レイナルド・アレナスであり、セネル・パス(『苺とチョコレート』)だ。先人が実際のホモの分類を行ったのを受け、ボラーニョはここで、その分類をさらに推し進め、加えてそれを詩の存在様態に適用するという、実に野心的な試みを行っている。文学(他者のテクスト)によって文学(詩)を脱文学化(おかまなどのカウンター文化化)する、実に革命的試みだ。

 などと、このまとめではよく言いたいことがわからないかもしれないが、ともかく、ぼくはこんな話をした。まさかそれが写真に撮られているとは! 

 いや、写真に撮られていることくらい知っていたけど……