ぼくはてっきりビセンテ・ブラスコ=イバニェスはノーベル文学賞を受賞していると思っていたのだが、受賞していなかった。代わりに、というのも変だが、先日買った岩波文庫のホセ・エチェガライが受賞していることを知った。ベナベンテの受賞は前から知っていたと思う。
高橋源一郎のツイッター@takagengenで、彼が新作小説の予告編を書いている。いや呟いている。昨夜はその2回目。ツイッターは1回につき140文字の制限つきだから、毎回10数度にわたっての連続投稿となる。そして、ツイッターの特性を利用して、感想や反応には返事を書いたりもしている。
さて、新作『「悪」と戦う』は次男の病気に端を発するものらしい。昨年、急性脳炎で病院に運ばれた息子が、小脳性無言語症とかで言語障害を患ってしまったと、そして『「悪」と戦う』は、「悪」と戦う代償に言葉を失う子供の話なのだとのこと。奥さんからはそんな小説書いていないで、とっととハッピーエンディングにして実際の息子を助けろと言われるのだが、小説ではそれはできないのだとのこと。大江健三郎の『個人的な体験』のことなどを持ち出して、小説の世界の作者からの他者性についての話を、高橋さんは展開していた。
ちょっと話はずれるかもしれない。が、あることを思い出した。
ガルシア=マルケスが『百年の孤独』を書いていたころ、脇の下のリンパ腺が腫れて難儀したことがあった。彼はその同じ苦しみを小説内の登場人物アウレリャーノ・ブエンディーアに背負わせた。すると、作家自身のリンパ腺の腫れが引いたのだそうだ。牢獄にいるアウレリャーノに母のウルスラが面会に行くシーンを書いているころの話。
文章は悪魔払いとしてある。ニーチェはそう言った。実際、悪魔払いでない文章は書いていて面白くない(たとえば、「啓蒙的」な原稿。たとえば官僚的書類)。ただし、この場合の「悪魔払い」というのは、たぶんに精神的なものでしかあり得ないはずだ。だが、こうして実際のリンパ腺の腫れが引いたという話などを聞くと、それは物理的に世界を変革することもあるのじゃないかと思いたくなることがある。
ま、本当は単なる偶然なんだろうけど。
さて、「啓蒙的」な文章を書き終えて、では次なる翻訳にでも取りかかるか。それとも悪魔払いとしての文章に移るか……
夜からは卒業生たちに会う。呼んでいただけるうちが花。とことこと出かけていこう。