2010年5月30日日曜日

サンデル先生に訊いてみよう

『朝日新聞』一面に不思議な記事が載った。これだ。「DPIを使って広告を配信していい」という法律ができるというもの。DPIというのは、「ディープ・パケット・インスペクション」のこと。アマゾンなどでクッキーを基に勝手にユーザーに「お勧め」を提供する(おかげで自分の著書や訳書などが薦められたりする)仕組みをプロバイダーに利用していいと認めるという話。


わからないのは結びの文章。この法案についての作業部会では、「総務省の事務方は積極的だったが、参加者の間では慎重論がかなり強かった。ただ、『利用者の合意があれば良いのでは』という意見に反対する法的根拠が見つからなかった」(太字は引用者)と参加者のひとりが話しているという文章。

利用者=消費者=市場主導に反対する「法的根拠」がここで必要なのか? 国民はプライバシーを守る権利があるという権利条項だけで、この場合は充分ではないのか? 市場主導の狂乱の20年を生きてなお、このことの異常さに「総務省の事務方」や、その連中に呼び寄せられるなんとか「作業部会」の有識者たちは気づかないのか?

こんなことでいいんですか、サンデル先生?

マイケル・サンデル『これから「正義」の話をしよう』鬼澤忍訳(早川書房、2010)。

参ったな。以前、NHK教育で放送中の『ハーバード熱血教室』の話は書いた。そのサンデルの本が翻訳されたんだが、この授業=番組、不思議と人気で2ちゃんねるなんかでもスレッドが立っている。そしてこの人気に便乗して出された本書、ぼくが覗いた時にはアマゾンの売り上げ1位だった。(ためしに見てみた拙著は750,000位台。へへ)そんなものを買ってみるぼくも、われながら情けない。

タイトルに「正義」などと「 」を使うのもいただけないし、オビの惹句を宮台真司が書いているのもいただけない(哲学が社会学に取って代わられた、というようなことを言ったのは東浩紀だが)。なによりもいただけないのは、そのオビのまとめが、実に要領を得ていることだ。さすが。ただし、「パターナル(上から目線)」などという俗情に結託した言い換えをしているところなど、いかにもこの人らしくていけ好かない。

まあいい。ともかく、サンデル先生、こんなんでいいんですか? 

まず、あなたの腎臓の一つを買おうとする人が、まったくの健康体だとしてみよう。その人はあなたに対して(あるいは、発展途上国の貧しい農民に対してというほうが現実的だが)八〇〇〇ドルを提示しているが、それは臓器移植を緊急に必要としているためではない。その人物は一風変わった美術商で、話の種になる卓上用の置き物として人間の臓器を金持ちの顧客に売ろうとしているのだ。こうした目的のための腎臓売買を許容すべきだろうか。自分自身の持ち主は自分だと考えているなら、「ノー」と言うのはかなり苦しいだろう。問題は目的ではなく、自分の所有を望むとおりに処分する権利なのだ。(95ページ。太字は引用者)

法律が経済に遠慮してはならない。その法律は哲学的根拠に基づいていなければならない。

冒頭の記事、ネット上のものには載っていないが、新聞紙上では注があり、アメリカ合衆国ではDPIを広告目的に使おうとして業者を「連邦議会が問題視して調査したほか、集団訴訟も起き、業者は破産したという」とか、イギリスでもEUに問題視されたとの情報が載っていた。これが共同体的リバタリアニズムの二枚腰なところなんですね、サンデル先生!

お、そう言えば今日は日曜日。サンデル先生の授業のある日じゃないか。この本を読みながら授業に臨もう……あ、でも夕方、用事があってちょっと家を出るのだった。むむむ……


へへ、本当はここで全部見られるのだけどね。